押し問答と嘘吐き男
「署に戻って旅行に行きなさいよ。」
無意識で佐藤は自分を掴む楊の両腕をそれぞれの手で掴んでおり、そして、掴んでいるだけで彼の腕を跳ねのけようとも、彼の戒めから抜け出そうとも考えていない自分にぞっともしていた。
「ですが、私達だって刑事ですし。」
いつもと感じの違う楊は、佐藤の到来を喜ぶよりも迷惑そうな目で見返して、これみよがしな溜息をついた。
抗議しようと佐藤は口を開こうとして、それが溜息でもなく、楊が疲労困憊しており、それゆえに出た大きな呼吸だっただけだと気がついた。
楊は簡単に佐藤を開放すると、そのままどさりと玄関口に座り込んだのだ。
佐藤は自由となれたが、しかし、彼が邪魔で玄関と部屋を隔てるドアを開けて先に進むこともできない。
楊の行動はわざとなのだろうかと、佐藤は楊を見下ろした。
「かわさん、大丈夫ですか?」
「あ、あぁ。大丈夫。疲れただけ。はぁ。八重はこの部屋の奥で亡くなっている。溝口は捕獲して今はそこにいる。この現場は公安の人達に任せるからね、君は署に戻って。見たければ見てもいいけどさぁ、これから旅行なら見ないほうがいいと俺は思う。」
「それだけですか?納得できるだけの情報を戴けたら仰る通りにします。」
楊は佐藤の返答に対して顔を上げると、卑怯なことに彼女にとろけるような笑みを向けたのである。
背中の、それも尾てい骨辺りがジンとくる笑顔だ。
楊のこの凶悪ともいうべく威力のある微笑の洗礼を受けたのは、佐藤が十代の女子高生の時であり、彼女は生まれて初めて異性の笑顔に胸が高鳴るという事態に陥り、さらには自分に初恋を覚えさせたその男を追いかけるべく警察の道を選んでしまったのである。
しかし、楊の笑顔は特別な相手へのものではないのだと、警察に入ってすぐに思い知らされて落ち込んだことも思い出した。
彼女は、思い出して湧き上がった感情そのまま、無意識に楊の右の脛を蹴ってしまっていた。
「いた!酷い。本気で知りたいの?僕は女の子に知らせたくないけどね。」
「かわさん。女の子って言い方、それは女性蔑視では。」
「男の子ってさぁ、女の人と同じぐらい、いや、もっと繊細だね。絶対。はぁ。」
楊はこれ見よがしに蹴られた右脛を撫でている。
佐藤は左も蹴ろうかと足を上げ、彼に対して低い声をかけた。
「かわさん?」
ただし楊は彼女の声音に脅える動作をするどころか、彼女のその素振りが嬉しいだけだという微笑みを返すだけなのである。
楊は自分を子供扱いしかしないと佐藤は苛立ち、気が付けば子供のように楊の左の脛も蹴っていた。
「いたい!もう。八重はね。男性器、つまりさ、男根を食い千切られての出血多量の死亡なの。男が女性に見せたくも語りたくも無い死に様でしょう。でもさぁ、だからこそ、君は見たい?」
「……冗談めかしておりますが、現場となっているのであれば、私はどんな状況でも臨む気持ちであります。」
すると、佐藤の返答に楊はむっすりとした顔付きになり、彼を見下ろす彼女から目線どころか顔まで逸らしてしまったのである。
「かわさん!」
「――俺はさ、最近後悔してんのよ。君を警察に引き込んだ事にね。」
佐藤の呼びかけに対してぼそりと呟いた楊の低い声に、佐藤は少々ぞわっと心が騒いだ。
その低く擦れた声は、佐藤が今まで楊から聞いた事も無い声であるのだ。
「かわ、さん?私が警察入りしたのは私の意思であり、……。」
すっと顔を上げて佐藤を真っ直ぐに見返してきた楊の顔には笑顔など一つも無く、それどころか疲れきった暗い影に覆われた年相応の顔であった。
この顔を佐藤に見せつけることで、佐藤の楊に対しての気持ちを楊が払拭しようと試みたのかとさえ邪推させるほどの表情なのである。
否、邪推どころか、佐藤の想いをずっと楊に見透かされてきたのかもしれないと佐藤は思い当たり、喉の奥に石が痞えたように声を出すどころか空気を吸う事も出来なくなった。
この停滞した空気のここで、楊がふっと笑った。
佐藤の行き当たった考えが真実だという風に。
「――かわさん。」
「あーあ、暴れん坊の君が大人になっちゃうなんてがっかりだよ。俺はさ、グロいのは嫌だって、葉山達に事件を投げちゃう君が好きだったのに。これじゃあ俺も責任感溢れる上司にならないといけないじゃん。俺は使えない窓際刑事になりたいのに、困るよ。」
勿論佐藤は楊の両脛を思いっきり蹴とばした。
楊は絞められた鶏のような雄たけびを上げて倒れ、今や足を両腕で抱える格好でゴロゴロと転がっている。
佐藤は彼女の足元で痛がる楊に対して姿勢を正すと、ぴしりと音が鳴るような敬礼をした。
「佐藤萌巡査はただいまを持って職務から離脱させていただきます。」
彼女は楊に一瞥する事も無くドアを開けて外に飛び出し、楊の楽しそうな笑い声を背中に受けながらそれを追い風のようにして走り出していた。
彼が好きだという女でいようとする自分からも逃げ出したいと考えながら、結局は父に心配をかけまいと強い女のふりをし続ける母のようにしかなれないと歯噛みしながらであったけれども。




