橋場家のお姫様の家出
目の前の痩せて小柄な少女は、胡坐の俺とは対称的に、硬く握り締めた両手を膝に置いてのカチカチな正座をしている。
さらに、歯を食い縛っての上目遣いの顔で俺に訴えていた。
勿論歯を食い縛っているので無言であるが、どんな子供にも備わっているらしき目力という百以上の言語を紡ぐ事ができるツールを使っての訴えである。
以前の俺にはそんなものなど一切通用しなかったが、最近父親となってしまったが故に俺も読み取ることが出来るようになったらしい。
読み取れない頃の方が気楽だったと溜息をついた。
「麻子。俺達がお前を如何こうする気はねぇが、ここは男所帯だからな、お前の外聞が悪くなるだろう。知っているか、この家の生臭坊主は女房がいながら美人と見るや家に引き込む強姦魔だって噂だぞ。」
噂話の不確実性には笑いが出る。
まず、俺には女房などいない。
我が家には養子にした息子が一人と、彼の愛してやまないモルモットが一匹いるだけだ。
俺は目の前の生真面目な少女の痛々しさに、癒し効果を求めて息子のモルモットの籠に目をやった。
頭にアプリコット色の鬣があるだけの、小型の豚にしか見えないスキニーギニアピッグという種類の鼠は、俺と目が合うやどすんと籠に体当たりをしてプイプイと泣き出してしまった。
モルモットは食べた分だけ糞をする、別名うんこ製造機でもある。
「この、不経済な生き物め。」
舌打ちと罵り声が思わず出てしまい、目の前の少女を怯えさせたかと見返すと、彼女はそんな事には一切気にも留めない図太さがあった。
俺は恐怖王ではなかったのかと思わず再び舌打ちをし、実は怯えて逃げ出して欲しかった自分を認めた。
麻子は俺を睨み返しはすれども、一向に腰を上げる気配を見せやしない。
それもそのはずだ。
彼女は家出をして来たのである。
学校から直接我が家に来た彼女は、体操着袋に家出のための着替えを詰め込み、指定鞄には学習用に辞書までも詰め込んでいた。
気軽に思い立っただけでないのその出で立ちに、俺は真面目な麻子の覚悟が窺い知れ過ぎて、彼女を強く追い帰せないのである。
「暗くなる前に帰らないと、心配性の善之助じいちゃんが泣くだろうが。」
彼女は世界の橋場と称される橋場建設の経営者一族の一人だ。
一族の一人どころか、橋場善之助会長の亡き長男が彼女の父だ。
しかし残念な事にその長男が恋人の妊娠を知る前に亡くなっており、橋場の認知はあるが、戸籍上での麻子は母親の姓を名乗る私生児でしかない。
だがそんな事情など、愛情深い善之助には関係ない。
母親がモデルの仕事があるからと善之助は彼女を喜んで預かり、渋谷の数奇屋造りの大豪邸で大事に大事に育てているのである。
子煩悩過ぎて俺の息子に「非常識親父」と罵られる善之助は、幼い彼女を背負っては株主総会だろうが建設現場だろうが、どこへでも非常識に連れまわしていたそうだ。
俺を恐れないとは、荒っぽい男が多い現場に、彼女が幼い頃から連れまわされて慣れているからに違いない。
そして善之助と言えば有名なのが、数奇屋造りの豪邸の中庭の一部を潰して能舞台をしつらえたエピソードだ。
明治の石炭王の屋敷のようだと、さすがの橋場だと絶賛されているが、息子の話ではそこで能が舞われた事は一切無いそうだ。
なぜならば、その舞台は大事な麻子専用の舞台なのだからだ。
バレエを習えばそこで舞わせ、お遊戯会で主役になれなかったと麻子が泣けば児童劇団を雇って脇役に配し、そこで彼女に主役を演じさせたのである。
「鑑賞者が親族だけならばまだしも、部下までご招待ですよ。非常識です。」
至極納得だ。
「クロちゃんをあたしの代りに渋谷のウチに行かせれば、お爺ちゃんは大満足よ。」
麻子は忌々しそうに口にした。
俺はそれもそうかもと一瞬考え、その通りだと舌打ちをした。
非常識な善之助が麻子と同じ位に非常識に愛してやまないのが、俺の息子なのである。
俺の息子のクロちゃんこと玄人は、橋場善之助の母親にそっくりなのだと聞いている。
それは、善之助の母が玄人の母方の実家である白波家の人間であるというだけだ。
金持ちはどこでも繋がっているという証拠でもあるが、名前はしょぼいが世界展開している白波酒造はそこらじゅうで婚姻を結んでいるので、財界は実に白波の親戚ばかりだ。
よって、玄人が善之助の母親そっくりの美女であるのはおかしな話ではない。