第九話
明かりのついた画廊の前で、彼は一度立ち止まった。
さすがに、息が切れた。
乱れた心音は、耳元で大きく鳴っている。
ドアノブに手をかけてみるが、厳重に施錠されているらしく、びくともしない。
何か、作業でもしているのだろうか。
彼は諦めず、肩で息をしながら、ドアをノックしてみた。
応答はない。
「彩さん?」
彼は、呼びかけてみる。
その言葉に。
一縷の望みを託しながら。
暗がりの中、彼は目を閉じた。
それから、ゆっくりと深呼吸する。
しっとりと重い夜の空気が、肺に満ちてくる。
その静けさの中で。
彼はやや、冷静さを取り戻しつつあった。
(一体、俺はどうしてしまったんだろう)
自分の取っている行動に、半ば呆れつつ。
彼は、そこを立ち去らなくてはと思った。
彩に会う前に。
歯止めが、利かなくなる前に。
その時。
ドアの鍵が、外される音がした。
次いで。
優しく、誰何する声。
「…どなたですか?」
「彩さん。…俺」
「まさか。銘さんなの?」
彼女は驚いて、ドアを開け放す。
それから彼の手を引き、椅子に座らせる。
動悸はかなり治まっていたものの、息はまだ荒かった。
「ごめん。こんな時間に」
「それはいいけど…何かあったの?」
心配そうに言いながら、彼女は、ドアの鍵をかけた。
その、乾いた金属音を聞きながら。
彼はもう、引き返せないと思った。
「急に、顔が見たくなって。明かりがついてたから、我慢出来なくて。つい走ったんだ」
「走ったの?嘘でしょう?」
「…彩さんに、会いたくて。自分でも、どうしようもなかった」
彼女ははっとして、口をつぐんだ。
その緊張が、銘にも伝わってくる。
「…ごめん」
彼はようやく、椅子から立ち上がった。
何とか、平静を装って。
「何言ってるんだろう、俺…」
彩は、答えなかった。
美しい横顔を見せながら、戸惑ったように、視線を外してしまう。
たちまち。
激しい後悔が、彼を襲い始める。
自分は何か、勘違いをしていたのではないかと。
知らず、大きな過ちを犯してしまったのではないかと。
しかし。
息詰まるような沈黙を破ったのは、彩の方だった。
「…丁度、レイアウトを変更してて」
彼女は、店の奥を指差した。
「気付いたら、こんな時間になってて。わたし、夢中になると、止められなくて」
「…邪魔しちゃったかな」
「ううん。まさか。丁度、帰ろうと思ってたから」
「送るよ。ところで、食事は?もう済ませた?」
「まだだけど…」
「俺も、まだなんだ。だから…何処か、寄っていこうか?」
「いいの?」
「勿論」
「でも、疲れてない?具合はどう?」
「もう、大丈夫。かなり落ち着いたから。それに、夜、彩さんと歩けるなんて滅多にないし」
彼女の表情に、ようやく笑顔が戻ってきた。
「ありがと。嬉しい、ほんとに。いつも、一人でご飯食べてたから」
そう言うと。
彼女はすぐに、片付けを始めた。
銘も、床に敷かれた布を巻く作業を手伝う。
「毎回変えるのは、大変じゃない?」
「多分、思ってるほどじゃないかな。服を着替えるのと一緒だから」
「へえ、そんな感覚なんだ」
「毎日、服を着替えるの、そんなに苦にならないでしょう?」
くすくす笑いながら、彼女は言う。
そう言う彼女の服装は、薄いグリーン地に、小花を散らしたタンクトップ。
同色のサンダルと、長いジーンズ生地の巻きスカート。
長い髪は、アンティーク調のダッカールでルーズに纏めてある。
屈んだ拍子に覗く、その細い首筋に。
彼は何度も、どきっとさせられる。
ある程度、作業を終えたあと。
彼女は厳重に鍵をかけ、シャッターを下ろした。
銘は、表通りの喧騒を避け、裏通りを選んで歩く。
彼女の歩調に合わせながら。
途中。
いつの間にか彩は、彼の袖にそっと掴まっている。
その慎ましやかさが、やけに愛おしくて。
意識的に、遠回りをしてしまったほどだ。
車に彩を乗せ、運転席に乗り込んでから。
彼は、六本木に車を向けた。
交差点近くの駐車場に車を止め、一軒のイタリア料理店へ。
「ライブのあと、よくここへ来たんだ」
そう言うと、彼は、古びた煉瓦作りの階段まで、彼女を案内した。
一歩先に彼女を行かせ、その背にそっと手を添える。
そんな気の利いたエスコートが、自分に出来るとは思っていなかった。
店は混んでいたので、二人はカウンターに並んで座った。
「六本木なんて、滅多に来ることないから。何もかも珍しいと思っちゃう」
彩は、煉瓦の壁に残る落書きに触れながら言った。
「これ、面白そう。わたしならもうちょっと削って、赤い瓶を埋め込んじゃうな」
「どうしてまた、赤い瓶なの?」
「これが赤だから。補色で緑を使うっていう手もあるけど。どっちがいいかなぁ」
そう言って彼女は、カウンターに敷かれた赤いチェックのクロスを指差した。
「なるほど。いつも、そんな風に観察してるんだね」
「ごめんね。半分、職業病みたいなものだから。気にしないで」
とは言うものの。
絵の話をする時の彼女は、いつも以上に魅力的だった。
ピザをつまみ、カルボナーラを半分ずつ分けながら、彼女のお喋りに耳を傾ける。
彼女は、ここのサラダに使われているホワイト・アスパラが、いたく気に入ったようだ。
「こんなの、初めて!すっごい美味しい。どちらかって言えば、苦手だったんだけど」
「でしょ?俺も、ここのは大丈夫なんだ」
「きりっと冷やしてあるからかな。それとも、ドレッシングの相性?」
彼女はしばらく、真剣に悩んでいるようだった。
そんな姿は、彼を温かな気持ちにさせてくれた。
その時。
さっきまでの衝動が、嘘のように収まっていることに、彼は気付いていた。
"伊豆の踊り子"の薫ではないが、それを彷彿とさせるほど、彩は無邪気だった。
世間の汚泥から隔離されたような、純粋さやひたむきさがあった。
その明るさは、鮮やかな色彩は、彼の目を時折眩ませた。
海底から水面を見上げた時の、明るく差し込むような光を、彼女は感じさせてくれる。
その幸せに。
彼は、溺れてしまいそうだった。