第八話
土曜の夜。
ソナーから叩き出される強烈なビートが、空間を埋め尽くす。
アラン・ローゼンバーグのドラム・ソロだった。
銘は、思わず顔を上げ、ステージを眺めた。
グランド・ピアノの前に座る本多が、悠然と煙草に火を点ける姿が見えた。
立ち上る青い紫煙は、ゆるやかな弧を描きながら、スポットライトを掠めていく。
銘はすぐに、ステージから目を逸らした。
それから、洗いかけのグラスを手にする。
「…悪いな、銘」
不意に。
馨が、耳元に囁いてきた。
人の良い丸顔には、戸惑いの色がある。
「何のことです?」
「あいつ、俺の甥っ子だから。どうしても断れなくてさ」
「いえ、構いませんよ。俺も、本多さんの演奏、久々に聴きたかったから」
困惑気味の馨に向かい、微笑んでのち。
彼は手を拭き、それから再び、ステージに向かって腕組みをする。
凄まじい緊張感に、観客は釘付けだ。
フランスへ渡ってからの本多のピアノは、別人のようなスタイルになっていた。
日本人離れしたタイム感覚、ペトルチアーニにも似た硬質なタッチ。
高度なテクニックと歌うようなフレーズには、一層磨きがかかったようだった。
その非の打ち所のない演奏を前にして。
複雑な気持ちを押し殺すように、彼は煙草に火を点けた。
以前。
彼のバンドのベーシストを務めていた自分が、今は、ステージ下からそれを眺めている。
落ちぶれたとは思わないが、何だかもどかしい。
それに。
あのピアニストに会いたくない理由は、もう一つあった。
とても40近いとは思えない、本多の端整な容姿を目にするたびに。
かつて。
自分の恋人がその腕に抱かれていたことを、どうしても想像してしまう。
あの鍛え抜かれた体の下で、彼女は、切ない声を上げていたのだろうか。
物憂げなキスを、何度も繰り返していたのだろうか。
自分に抱かれている時と、同じように…
「―― 銘さん!」
叫ばれて、はっとする。
視線をカウンターに戻すと、明に睨まれた。
「さっきから呼んでるのに。もう、何考えてんの?」
「あ、すまない。つい聴き惚れて」
「まあ、気持ちは判るけど。…ビール頂戴」
「了解。でも、飲み過ぎじゃないのか?」
「ふふん。今日は、珍しく気分がいいんだよ」
新しいピルスナーを取り、サーバーからビールを注ぎつつ。
彼は、明の美しい横顔を盗み見ていた。
プライドの高いミュージシャンが多い中、彼女はまず、他人の演奏に嫉妬しない。
自分に、揺るぎのない自信があるからだろう。
優れたミュージシャンの演奏を、きちんと聴く耳と余裕を持っている。
そんな明の態度が、彼は羨ましかった。
音楽は、実力の世界だ。
口癖のように、明は言う。
音楽をやる場合、年齢や性別は大した問題ではない。
何処にいたか、誰に学んだかではない。
今、何をしているかが重要なのだと。
そんな話をする明は、いつも以上に大人びて見えた。
そのたびに、銘は感心させられる。
如何に年下とはいえ。
彼女の言葉から学ぶ機会は、多々あったのだ。
最高潮に盛り上がったまま、Gigは終了。
アンコールは、3曲に渡った。
額の汗を拭いつつ、本多は、カウンターに近付いてくる。
「銘!」
「お久し振りです」
二人はしっかりと、握手を交わした。
「お久し振りって程でもないだろう。相変わらず、いい男だな」
「いえ。本多さんこそ」
「何、叔父貴から訊いたけど、お前、音楽の仕事、殆ど取ってないんだって?」
「ええ」
「嘘だろう?勿体ない。ここだって、無理矢理手伝わされてんじゃないのか?」
「いえ、馨さんは何も。俺が無理言って、任せて貰ってるんです」
「銘。冗談だろう。お前ほどの奴が、こんなちっぽけなハコのマスターで一生終わる気か?」
「いいんです。俺、元々、客商売好きですし。ベースにも触れるし。性に合ってますから」
「ふうん。そういうもんかな。何だか俺は、腑に落ちないね」
そう言って本多は、縁のない眼鏡を外した。
服の裾でレンズを拭きながら、何気なくこう言ってくる。
「…修子ちゃん、どうしてる?」
銘は思わず、彼を凝視した。
本多は俯いたまま、視線を合わせようとはしない。
束の間、沈黙が続いた。
「…元気ですよ。今、大学に通ってます」
「そうか」
本多は再び、眼鏡をかけた。
それから、銘と視線を合わせる。
「そうだ。婚約したんだってな。おめでとう」
「ありがとうございます」
「お前の方が、彼女には合ってる。俺なんかよりずっと…」
銘は、返事をしなかった。
それが、本心からの言葉でないことに、気付いていたからだ。
察したのか、本多はすぐに、話題を変えた。
「彼女、まだ、ピアノは弾いてるのか?」
「ええ。ジャズ研に入ったみたいで」
「良かった。止めないでいてくれたか」
「止められる訳ないでしょう。彼女は、今でも…あなたのことを」
思わず。
そんな言葉が、口をついて出た。
しかし。
目の前にいるピアニストの顔には、何の感情も現れてはいない。
彼の表面には、傷一つ付いていない。
小さな湖面のように、穏やかだった。
その態度に。
銘は、微かな苛立ちを感じていた。
そのポーカー・フェイスが、いつになく癪に障ったのだ。
再び訪れた沈黙の中で。
彼は、本多から目を離せなかった。
「…終わったことだよ、もう」
そう言うと、彼は微笑んだ。
「それにさ。俺があの子を選べなかったのは…お前のせいなんだぞ」
「…どういう意味です?」
「知らなかったとでも思ってるのか?」
「何のことです?」
「ああ、銘。お前は本当に素直じゃない。全然、変わってないよ」
本多は、はぐらかすように笑うと、さっと身を翻した。
これ以上話したくないという時、彼がよく取るポーズだった。
「ちょっと、待って下さいよ」
さすがに気色ばみ、そのあとを追おうとした銘の腕を、馨が掴んだ。
「馨さん」
「すまん、銘。俺に免じて、我慢してやってくれ」
「でも」
「ほんと、すまん。俺が悪かった。やっぱり、お前と会わすんじゃなかったよ」
結局。
銘は、馨に言われて、打ち上げが済むまで店を離れることにした。
とは言え、何処に行く当てもなかった。
ふと。
彼は思い付いて、銀座へ車を向ける。
深夜0時に、彩がそこにいるとは思えなかったが、他に行く場所がなかったからだ。
あれから毎日。
彼は、彩の元を訪れていた。
ポットに作った珈琲を差し入れしながら。
午前中、まだ顧客が集まらないうちに、いろいろな話をした。
絵のこと、音楽のこと。
互いの家族や、これまでの経歴を。
しかし。
一つだけ、触れないことがあった。
彩は絶対に、自分の連れ合いの話をしなかった。
銘もまた、修子の話を持ち出すことはなかった。
それはある種、暗黙の了解のような感じだった。
そんな触れ合いの中に。
自分を見詰める、彼女の瞳の中に。
銘はいつしか、安らぎを見出していた。
そして、薄々察していた。
彩の方も、同じ気持ちでいることを。
それなのに。
彼にはまだ躊躇いがあった。
日本を代表する洋画家、槙村英の妻である彩と、安易に関係を持つことに対して。
それと。
心こそ離れかけているけれど、いまだ彼の恋人である、修子を裏切ることに対して。
あれ以来。
彩とは、抱擁を交わすどころか、手すら握らない付き合いを続けている。
手を伸ばせば、すぐに触れ合える距離にいて。
内なる炎は、身を焼き尽くさんばかりだった。
焦燥はすぐにでも、彼女を抱き寄せようとする。
こんなことは、生まれて初めてだった。
そんな衝動を抑えながら、足を運んでいた彼の目に、例の画廊が見えてきた。
何故か。
煌々と、明かりが点いている。
彼は、目を疑った。
(…嘘だろう?)
あそこに、彩がいる。
そう思った途端。
思いは、堰を切ったように溢れていく。
気付くと、彼は走り出していた。
雨上がりの歩道の暗い水を跳ね上げて。
何もかも忘れていた。
音楽のこと、自分の病のこと。
本多や、修子のことさえも。
彼にはもう、彩のことしか、考えられなかった。
彼女のことしか、頭になかった。
許されるものなら。
今すぐにでも、思いを伝えたいと思った。
あの可憐な人を、この腕に抱き締めて。
彼女の鼓動を、この胸に感じながら。