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青の旋律  作者: 一宮 集
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第七話

銘が、12歳の誕生日を迎えた秋。


冷たいリノリウムの床の上に、彼は、横たわっていた。

胸を締め付けられるような苦しさと共に、意識が朦朧としていくのが判る。

一人で出歩いてはいけないと言われた理由を、この時銘は、ようやく悟った。

ナース・コールも出来ず、助けも呼べず。

眩い夕日が差し込む、人気のない廊下で息絶えていくのかと、

彼は半ば諦め、半ば恐怖を感じていた。


次第に動きを遅めていく心音が、自分の耳にもはっきりと聞き取れた。

まだ、たった12年しか生きていないのにと、彼は思った。


あの制服に袖を通すことも、もうないのだろう。

母は、泣いてくれるだろうか。

父親は、ほっとするかもしれない。

僕の存在をあいつは、最初から認めたくなかったのだから。



絶望して目を閉じた彼の耳に、スリッパの足音が聞こえてきた。

その早い歩みは、彼の足元で、ぴたりと止まった。

誰かが、覗きこんでいる気配。


「…どうしたの?」


やや、舌足らずな少女の声。

返事をしたかったが、彼は、呻くのが精一杯だった。


「具合、悪いの?」


「……」


「看護婦さん、呼んできてあげようか?」


銘は、何とか頷いた。

少女はすぐに、ぱたぱたと音を鳴らして、廊下を駆けていく。


助かった、と、彼は胸を撫で下ろしていた。

もし処置が間に合わなかったとしても、誰かが自分を見つけてくれるだろうと。

そうすれば、少なくとも、ここで一人で死ななくて済む。

そんなことを考えているうちに。

彼の意識は、遠のいていった。




数日後。

外科病棟の個室に、彼は寝かされていた。

胸の中央に、鋭い痛みがあった。

体には、複数のチューブが差し込まれている。


部屋は、ホテル並だった。

エアコンとクローゼット、バス・ルームとキッチンまでついている。

多分。

父親が、金を出したのだろう。


ぼんやり目を開けると、目の前に、母の姿があった。

彼女は優しく、彼の頬を撫でている。


「大手術だったのよ。よく、頑張ってくれたわね」


「…検査入院って話じゃなかったの」


「調べてみたら、心臓の他にも、いろいろな病気があったのよ。でも、心配要らないわ」


その笑顔を眺めながら。

かれは不意に、思い出した。

あの、少女のことを。


「…お母さん」


「うん?」


「誰か、僕を助けてくれた?廊下で倒れてた時」


「ああ、そう。あなたの命の恩人がいるわよ。今日も来るかしらね」


その時。

ドアを、ノックする音。


「ほら、噂をすれば」


母は、悪戯っぽく笑って、ドアを開けに行く。

起き上がる気力はなかったが、彼は何とか、その方向に目を向けようとした。


「こんにちはぁ」


舌足らずの、甘い声。

あの子に間違いない。


ベッドまで来ると、彼女は伸び上がって、彼の額に触れた。

思いがけず、それは、可憐な少女だった。

白いブラウスに、真っ赤なスカート。

やや薄い色の髪は、肩までの長さがあった。


「あーちゃんが見つけてくれなかったら、あなた、今頃お墓の中ね」


「そうだと思うよ」


彼は、頷いた。


「あの時はさすがに、覚悟したもの。ありがとう」


彼女を見詰めて、彼は何とか微笑んだ。

少女もまた、微笑みを返す。




その日以降も、彼女は毎日のように、彼の病室を訪れた。

午前中の回診が終わると、二つ向こうの小児科病棟から、少女は駆けてくる。

スケッチブックとクレヨンを片手に。

銘にとって、彼女と会うことは、退屈な入院生活の中で唯一の楽しみだった。



少女は、恐ろしく絵が上手かった。

子供とは思えない感性があると、彼の母も褒めていたぐらいだ。

特に、色彩のバランスが抜群に良かった。

彼女の手にかかると、一枚の紙が、たちまち息を吹き返す。

カレンダーの裏も、チラシの余白でさえも。

彼自身も多少、絵を習ったことはあったのだが、とても少女のようには描けなかった。


「あーちゃん、絵描きさんになればいいのに」


感服しながら、彼は思わずそう言った。


「絵じゃ食べられないって、お父さんが言ってた」


「そうかもしれないけど、でも、勿体ないよ。こんなに上手いのに」


「そうかなぁ」


「そうだよ。だから、絶対に続けなよ。退院してからも」


彼が熱心にそう言うと。

彼女は、はにかみながら頷いた。




3ヵ月後。

銘は、彼女より先に退院した。

少女は、お別れに、一枚の絵をくれた。

明るいオレンジで彩られた、海の絵だった。


「オレンジの海なんて、あーちゃんらしいな」


彼がそう言うと、彼女はまた、照れたように笑った。

看護婦や医師、少女に見送られながら、母親とタクシーに乗り込んだ時。

彼は、彼女の名前すら知らなかったことに気付いた。


「あの子、ほんとは何て名前なの?」


「言われてみれば、お母さんも知らなかったわ。皆、あーちゃんって呼んでたから」


「しまった、訊いておくんだったよ」


「まぁ、でも何れ会うこともあるんじゃない?」


「そうかな」


「そうよ。あの子きっと、有名な画家になれるわよ」


母は、そう言って笑ったのだが。

彼の胸には、微かな後悔が残った。





復学してのち。

毎日の忙しさにかまけて、彼は、そのことをすっかり忘れていた。

16年後の今、この場所で、この絵を見るまでは。

彼女を、この腕に抱き締めるまでは。


「…思い出したよ」


彼の言葉から、敬語が消えていた。

記憶が、現実と繋がった証拠だった。


「どうして、最初から言ってくれなかったの?」


「……」


「そうしたら、もっと早く……」


その言葉を遮るように、彼女は口を開いた。


「銘さんは、もう、手の届かない人だと思って…」


「え?」


「わたしのことなんか、もう、忘れてたでしょう?」


「いや、そんな…」


「じゃあどうして、もっと早く気付いてくれなかったの?」


彼は、観念して頷いた。


「ごめん。彩さんの言う通りだよ。もっと早く気付くべきだった」


「ねえ、責めてる訳じゃないの。今はもう、思い出してくれたんでしょう?」


「そう、完璧にね。君は、俺の命の恩人だもの」


彼はあらためて、その背に腕を回した。

やや力を込めて抱き締めると、彼女は微かな溜息を漏らした。

苦しさは薄れたが、彼の鼓動はまだ、早まったままだ。


「…いつから、知ってたの?俺のこと」


「あの店には、昔からよく行ってたの。あの人、ジャズが好きだから。その時、スケジュールボードに銘さんの名前を見つけて。凄く、びっくりした」


彼の胸に顔を埋めたまま、彩は話を続けた。


「変わった名前だから、ずっと覚えてた。それから雑誌なんかで、あなたのこと調べてて。あの銘さんが、現役のプロ・ミュージシャンだなんて。何だか、信じられなかった」


「今はもう、プロじゃないけどね」


彼は、溜息をついた。


「病気が再発して、諦めざるを得なくなったんだ。ツアーなんてもっての他だって。親父に怒られたよ。俺が医者にならなかったってことだけでも、かなり怒ってたから」


「…そうなの?」


「うん。でも、ああいう仕事は嫌いじゃないし、どんな形でも、音楽は楽しめるからね。一線は退いたけど、後悔はしてない。やろうと思えばいつでもやれるって自負があるから」


彩は、俯いたまま、その言葉を聞いていた。

彼の心音に、耳を傾けながら。


「銘さん。…また、お店に行ってもいい?」


「勿論。いつでもどうぞ」


「良かった。迷惑だったらどうしようかと」


「まさか。俺も、期間中は毎日ここへ来るよ」


「ほんとに?」


「絵を見るのは好きだし、昼までどうせ暇だし。迷惑かな?」


「まさか。すっごい嬉しい」


彼女は微笑むと、彼から自然に体を離した。

背中に回されていた腕は、ゆっくりと下りてきて、彼の両手をそっと握る。

ひんやりした指先を通して、彼女の温もりが伝わってくる。


「わたし、ほんとは、青って苦手な色だったの。だから、あんまり使ったことなくて。でも、銘さんのイメージはずっと、青だったから。それでやっと、あれが描けたの」


「オレンジの海も、嫌いじゃないけどね」


「やだ。覚えてたの?」


「思い出したって言っただろう。まだ取ってあるよ」


「あれを?嘘でしょう?」


「将来。価値が上がるかなと思って。正解だったみたいだね」


「信じられない。でも、銘さんらしいな」




その時。

入り口のドアが開く音がした。


二人は慌てて、手を離す。

向こうから、男の声がした。


「彩さん、瀬川です。やっと来れましたよ」


「はぁい、いらっしゃいませ」


彩は、薄布を掻き分けて、受付へ戻る。

彼の手には、彼女の温もりが、まだ残されていた。


「いやぁ。ご無沙汰でした。久々の個展ですよね」


「ええ、お陰さまで」


「単独では初めてじゃないですか?」


「いえ、毎年やってますよ」


「それは失礼。で、旦那さんは?」


「まだ、パリです。今年は帰る気ないみたい」


「へえ。それじゃ、お寂しいでしょう」


「いつものことです。もう、いい加減慣れてますし。それに…」


相手は、恰幅のいい中年男性。

着ているスーツからして、如何にも金持ちといった感じだ。

彩にしてみれば、いい顧客なのだろう。


銘は、二人の邪魔をしないように、会釈して店を出ようとした。

どうせまた、明日も会えるからと。


しかし。

彼の背に向かって。

彩は、はっきりとこう言った。

顧客である男に向かって、話している振りをして。


「…今は、恋してますから」


彼は、耳を疑った。

思わず、振り返る。

彩と、すぐに目が合った。

彼女は真っ直ぐに、彼を見詰めてくる。


刹那。

胸を貫く、痛みを感じた。

ほんの一瞬だったが。

秘めた思いを、見抜かれたような気がした。




不意に。

男の声が蘇る。


「…またまた、彩さんは。すぐそういうことを仰る」


「いえ、ほんとですから」


彼女は再び目を伏せて、名簿を確かめている。

男はしたり顔で、こう付け加えた。


「まあ、芸術家はそうじゃなきゃいけないですね。レンブラント然り、ダリ然り…」



そんな会話を背中で聞きながら、店を出たあとも。

彼は、激しく動揺していた。

自惚れたくはなかったが。

その言葉は確かに、自分に向けて発せられていたように思えた。


押し殺しかけていた思いが、再び湧き上がってくる。

彼女のことを思い出したことで、ひょっとしたら、

仲のいい友人になれるのではないかと。

そんな期待があった。

出来るなら。

彼は、そうしたかった。


しかし。

その一言で、生身の彩と触れ合うことで。

嫌でも、彼女への思いを確信させられた。

その体の感触も、温もりも、まだ生々しく残っていた。

触れた指先も、コロンの匂いも、彼の脳裏から離れてはいかなかった。



この日。

彩に惹かれている自分を、彼はようやく認めることが出来た。

そして。

彼女もまた、彼を愛し始めていたのだ。

 

 

 

 

 

 

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