第六話
一週間後。
銘は、新橋へ赴いた。
晴れ渡る空の下、銀座まで足を進める。
銀座柳通りに面した場所に、その小さな画廊はあった。
青銅製のアンティークな看板に目をやったのち、彼は、ドアを押す。
目についたのは、天井から吊るされた十数枚の長い布。
手染めなのか、全て、微妙に色が違っている。
手前は、鮮やかな萌黄色。
奥に進むにしたがって、明度と彩度が落ちていく。
その壁の右側から奥に向かって、ずらりとシルクスクリーンが並ぶ。
風景画や抽象画を含め、どれもこれも、見事な作品だった。
ゆっくりと足を運び、また止めながら、銘はその絵を眺めていった。
荒々しい表現と、思いがけない迫力が、そこにはあった。
たおやかな彩の外見からは、およそ想像もつかない世界が。
時に艶かしく、時に淡々と、また、時に強い主張を繰り返して。
緑や黒、赤やオレンジ、黄や青を多用した、濃厚な原色と単純な描線。
一目見ただけで、その色彩や構図に、巧みな技法に、心を奪われてしまう。
彼は思わず、溜息をついた。
(これが、才能って奴なのか)
夢中になってそれを見ていると。
不意に、背後から声をかけられた。
「いらっしゃいませ」
驚いて振り返ると、ヘリンボーンのスーツを着こなした老人が、入り口の椅子に座っていた。
人品卑しからぬ風貌からすると、この画廊の店主のようだ。
彼は慌てて、その位置まで戻る。
「あ、すみません。勝手に入ってしまって」
「いえ、宜しいですよ。招待状はお持ちですか?」
「ええ」
銘は、シャツの胸ポケットから、例の葉書を出した。
店主と思しき男は、それを確認し、笑顔と共に彼に渡した。
「では、ごゆっくりご覧下さい」
「あの、彩さんは…」
「そろそろ来ます」
彼がそう言った時。
タイミングよく、入り口のドアが開いた。
大きな花束を手にした彩は、後ろ手にドアを閉めた。
彼女が纏っているのは、床まで届きそうな長いワンピース。
薄い絹地を彩る、黄色と緑のグラディエーションが美しい。
垂らしたままの髪は、彼女の動きに合わせて、ふんわりと揺れている。
銘の姿を認めた彼女は、にっこりと微笑んだ。
「郁崎さん」
両手に抱えた大輪の薔薇を、彼女は店主に手渡した。
それからあらためて、銘に向き直る。
「来て下さったんですね」
「ええ。でも、ちょっと早過ぎましたね」
「開店直後ですから、逆に、ゆっくり見られますよ。どうぞ」
彩は、彼の背に右手を当てた。
それから、視線を合わせて微笑んでくる。
彼女に触れられ、澄んだ瞳に捉えられるたびに。
微かな心の揺らぎを、銘は感じていた。
大きなガラス窓から差し込む日差しは、多くの薄布に遮られ、適度な影を落としている。
作者の目の前で絵を鑑賞するのは、これが初めてだった。
銘はやはり、あの時と同じ緊張を覚えていた。
不意に。
店主が、声をかけてきた。
「あ。彩ちゃん」
「はい」
「わたし、ちょっと出掛けてきますから」
「はい、判りました」
「あと、宜しく。何かあったら、携帯呼んでくれれば」
「はぁい。行ってらっしゃい」
ドアが閉まる音を、背後に聞きながら。
彼は何故か、鼓動が早まるのを感じていた。
彩の、微かな温もりが、すぐ傍にある。
手を伸ばせば、すぐに届きそうな位置に。
懸想してんじゃない?という明の言葉が、脳裏に浮かんでくる。
まさか。
冗談じゃないぞ。
彼は必死に、その考えを打ち消した。
今日を入れても、まだ5回しか会っていない女性に、恋をするなんて。
しかも。
相手は、人妻だというのに。
自分には、婚約者がいるというのに。
順路に従っていくうちに、彼女の描く緑は次第に濃くなっていく。
まるで、森の奥に歩みを進めているように。
彩は特に、何も言わなかった。
感想を求める訳でも、解説をするでもなく。
ただ、彼の傍に寄り添っている。
そのことがむしろ、更なる緊張を招いていた。
薄布を掻き分けながら、最後の作品に辿り着いた時。
銘は思わず、目を見張った。
等身大のガラスの上に描かれた、果てしない青の世界。
勢いある筆は自由自在に表面を駆け巡り、さらに、フリーハンドによる黒の描線が、その繊細なマチエールの上を、確固たる意思を持って横切っている。
透明な空間は、淡い水色から夕暮れのような紺まで、思いつく限りの青で埋め尽くされていた。
海のような、空のような世界が、そこに広がっている。
その鮮烈な色彩と、存在感に魅せられて。
彼はしばし、その前に立ち尽くしていた。
「…気に入って、戴けましたか?」
彩は、遠慮がちに訊いてくる。
「ええ。これは、何と言うか…圧倒されますね」
「あの、アクリル絵の具を使ってみたんです」
彼女は、その表面にそっと指先を触れた。
「郁崎さんにお会いしたあと、急に、こういうの描いてみたくなって。何だか久し振りに、夢中になって。だから、お店に伺うのが遅くなってしまって」
「そうだったんですか」
「"melodia blu"です。これは、郁崎さんからインスピレーションを貰いました」
「俺から?」
「はい。あなたと、あなたの音楽から。この黒は、音なんです。郁崎さんの奏でる音」
「そんな…たった、あれだけの音からこれが?」
「あれだけで、充分です。それに…」
彩はつと、彼の前に立った。
それから。
じっと、彼を見上げてくる。
天井からの空調が、吊り下げられた布を静かに揺らしている。
彼女の髪も、微かに靡いていた。
彼は言葉を失って、その瞳を見詰め返す。
その時。
一切の音が、消えたような気がした。
彼女の言葉は、宙に浮かんだままだ。
鼓動は、嫌でも早まってくる。
彼は不意に、息苦しさを感じた。
それが、いつもの頻脈なのか、彼女のせいなのか、判らなかった。
彩は、ふっと視線を外した。
それから指先で、彼の胸に触れてくる。
まるで、何かを確かめているみたいに。
「…銘さん」
彼女は、目を伏せたまま、彼の名を呼んだ。
「まだ…判らないんですか?」
そう呟くと。
彩は、彼の胸にその身を預けた。
突然のことに驚いて、身を引こうとする彼の背を、彼女は強く抱き締める。
柔らかな髪が、腕に落ちかかる。
ワンピース越しに、彼女の体温が伝わってくる。
華奢な体の感触と、うっとりするような匂いの中で。
彼はその誘惑を撥ね退けられずにいた。
何故なら。
彼は、ようやく思い出したのだ。
昔。
自分を、ひたむきに追いかけてくる少女がいたことを。