〜エピローグ〜
久し振りのステージは、超満員で。
客席はおろか、階段下まで人で埋まっている。
カウンターにいる彼も、臨時で雇った学生も大忙しで。
ひっきりなしに飛んでくる注文を捌くのがやっとだった。
一度目の休憩のあと。
ようやく、仕事も一段落したあたりに。
彼はカウンター内の戸棚に凭れ、安堵の溜息をつく。
( ―― こんな状態を、しばらく忘れていたな)
そう思いながら、煙草に手を伸ばすと。
明に、ぴしりと叩かれた。
「こら。禁煙中!」
「あ、すまない」彼は、慌てて手を引っ込める。「つい、習慣で…」
「僕だって我慢してるんだから。銘さんが我慢しなくてどうすんのさ」
そう言いながら、ビールを呷る横顔を。
彼は、穏やかな気持ちで眺めていた。
あれから一ヶ月。
傷心の葵は、大学を休学し、アメリカへ行くことになり。
お調子者の徹は、大手レーベルからデビューすることが決まった。
売れっ子の圭介は、公私共に忙しく。
何処へ行っても、女性ファンに囲まれている。
明は黙々と、殺人的なスケジュールをこなしており。
連日のように、スタジオとライブハウスを往復する状態が続いている。
それでも。
時間のある時にはこうして、店に顔を出してくれている。
そして。
葵がいない間という条件で、銘も音楽界への復帰を決め。
少なくとも、月に二度はステージに立つことになった。
今日は、葵の留学記念セッションで。
狭い店内は、大いに盛り上がり。
彼の後輩や先輩で、ごった返している。
「いいぞ、岡村!」
「脱げ! 脱げ!」
「いっそ背中で弾け!」
そんな学生達の掛け声を聞きながら。
彼はまた、溜息をつく。
またこうして、音楽を楽しめる日が来るなんて。
仲間達と、この店で騒げる日が来るなんて。
あの頃の彼には、想像もつかなかった。
「 ―― 銘さん。大丈夫?」
背後からそっと袖を引かれて。
彼は、振り返る。
伸びた髪を後ろで纏めた修子が、そこにいて。
大きな瞳を彼に向けている。
「大丈夫だよ。うるさくないかい?」
「ううん。でも、忙しくないかなと思って。何か出来ることある?」
「何もないよ。手のかからない連中だから」
「でも、何だか落ち着かないな」
「いいから、横になって。どうしても駄目なら声かけるから」
彼がそう言うと。
修子はようやく頷いた。
そんなやり取りも、久し振りだった。
あのあと。
銘の再三の謝罪に、彼女は答えようとしなかったけれど。
アメリカへ帰国した修子を追って、彼が渡米した時には。
本多の説得もあって、ようやく首を縦に振ったのだ。
とはいえ。
例の一件で受けた傷は、まだ癒えておらず。
醜聞や噂も、完全に消えた訳ではなかった。
それでも。
自分のしでかしたことを、それに対する批判を、彼は真摯に受け止めて。
もう二度と、繰り返さないと誓った。
後日、彩と交わした最後の会話の中で。
彼女にも、そう言われたからだ。
修子の姿が、店の奥へ消えてしまうと。
明は空のグラスを手に立ち上がり、自からサーバーの前に立つ。
それも、いつものこと。
「…銘さん」
「うん?」
「何か、言うことないの?」
「ああ」彼は、ステージから目を離さずに言う。「ありがとう。その節は」
「全然、心籠もってないんだもんなぁ」
「そんなことないよ。照れてるだけだ」
「まあ、いいけどね」グラスに口をつけながら、明が言う。「誰にも話せないのが残念だけど」
「……」
「例の修羅場なんか。ファンの人が聞いたらどう思うだろう?」
「あのなぁ。脅してるのか?」
「そんなつもりはないよ。今は、ちょっとした優越感もあるし」
「優越感?」
「うん」
「どういう意味?」
「この数ヶ月間で、銘さんの弱点、随分と見ちゃったから」
「……」
「ずっと、完璧な人だと思ってたけど。そうでもないんだなって」
「全然完璧じゃないさ」彼は、溜息をつく。「がっかりしただろう?」
「がっかりなんてことはないよ。今更ね」
「……」
「あと、もう一つだけ。判ったことがある」
「何が?」
「銘さんに対する、自分の気持ち」
思い掛けない言葉に、はっとしたけれど。
明は、平然とビールを飲んでいる。
彼と同じように、戸棚に凭れたまま。
ステージから目を離すこともなく。
「誤解しないで。銘さんが誰と寝ようと、誰と結婚しようと。そんなことはどうでもいいんだ」
「……」
「少なくとも。ステージ上であなたを独占出来るのは、僕だけだから」
「……」
「 ―― でしょ?」
「ま、まあ…そうだな」
「言っておくけど、手加減しないからね。こと音楽に関しては」
「……」
「銘さんが過去どれだけのビッグ・ネームだったとしても。関係ないから」
「ああ。その方が助かるよ」
「本気で言ってる?」
「本気だよ、勿論」彼は、腕組みした。「しかし恐ろしい奴。人前で口説くかね?」
「馬鹿みたいに鈍い人だからな」彼女は、溜息をつく。「ここまで言わせるか、普通?」
「光栄だよ、世界の飯田明に惚れられるなんて」
「惚れちゃいないね」明はぴしりと言う。「僕が惚れてるのは、圭介だ」
「はっ?」
「音楽的にね」彼女は、にっこりする。「自惚れは良くないな。銘さんの代わりは幾らでもいる」
「えっ、ちょっと待て。この前と話が ―― 」
引き止めようと腕を伸ばすと。
逆に、その手を掴まれた。
「行こう。そろそろ出番だよ」
そう言うと。
明は彼を従えて、するりとカウンターを抜け出した。
いつの間にか、ミュージシャンの顔に戻って。
「では、そろそろトリに登場して貰いましょう…って、まだ早いですよ!」
司会の学生が、慌てているにも関わらず。
明は、人を掻き分けながらステージへと向かう。
その上にはすでに、テナーを構えた圭介がいて。
ドラムに陣取った徹の姿も見える。
ピアニストは、そそくさとその場を離れ。
葵はベースを手にしたまま、銘に笑顔を向け。
その左腕は、大きく開かれている。
抱擁を待ちかねているように。
「おっ! 真打ち登場か?」
「待ってました!」
「銘さーん!」
眩いスポット・ライトに包まれ、割れんばかりの拍手と歓声を浴びながら。
二人は一歩一歩、迷うことなく足を進めていく。
銘にとって。
また、彼女にとって。
一番似つかわしく、一番相応しい場所へ。
- 完 -