第五十三話
再び訪れた、冷ややかな沈黙。
こんな緊張感は、生まれて初めてだ。
そう思った次の瞬間。
左頬に、鋭い衝撃が走った。
何が起こっているのかを把握する暇もなく。
反射的に腕を上げ、庇おうとしたのだが。
再び何かが、容赦なく頭上に振り下ろされる。
目を閉じる寸前、視界に飛び込んできたのは。
薔薇の花束を振り翳している彩の姿。
制止する隙さえ与えずに。
彼女は無言で、それを振り下ろし続ける。
丸テーブルが引っ繰り返り、椅子が倒れても。
彩は一向に手加減しなかった。
その殺気に。
その豹変振りに。
腹立ちよりもむしろ、底知れない恐怖を感じた。
あの夜。
夥しい量の鮮血に平然と手を浸し。
怖がるどころか、綺麗な色だと陶然としていた彩。
その時と同じように。
何度となく鞭打たれながら。
彼は、殆ど抵抗しなかった。
両腕や顔の皮膚が破れ、血が滲み出してからも。
必死に、その仕打ちに耐えていた。
自分に非がある以上。
何をされても仕方がないと思っていた。
例え、不倫と呼ばれる関係であったとしても。
彩の激昂は、憎しみは、当然のことだった。
だから。
それを、拒絶してはならないと。
真っ向から受け止めなければならないと思った。
激しく、執拗な暴力。
彩の怒りを、憤りを、甘んじて受けながら。
次第に麻痺し始めた頭の中で。
霞む視界の向こうの風景を。
彼は何故か、美しいと思い始めていた。
怒りに頬を染める彩のことを。
千切れた花弁が宙を舞い、床に散乱していく様を ――
その時。
店内に、不協和音が響き渡った。
体に伝わる鈍い振動。
それと。
重いガラスが倒れ、砕け散る音。
突然の出来事に。
彩は、我に返ったようだった。
手を止め、銘を見下ろした状態で。
呆然と虚空を見詰め、立ち尽くしている。
息を切らせたまま。
激しい動悸と、胸の痛みを覚えながら。
銘は、額の血を拭いつつ起き上がり。
そこでようやく、状況を把握し。
事態を認識した。
一面に散乱している、ブルーのガラス。
粉々に砕け散ったそれが、彩の絵であることと。
彼女から貰った"melodia blu"であること。
そして。
分厚いガラスの作品を壁から引き剥がし、床に叩き付けたのは。
他でもない、明であることを。
「 ―― いい加減にしてくれないかな?」
ガラス片を踏み締めながら、明は歩み寄ってくる。
その声には、苛立ちの色がありありと見えた。
「いいトシこいた大人が。みっともないと思わない?」
それにはさすがに、一言も返せずに。
彩は俯いて、花束を取り落とす。
とはいえ。
大輪の花は全て散り終えて、残っているのは茎だけで。
ぼろぼろに千切れたそれはまるで、何かの骨のように見えた。
「前にも言ったけど、僕はどっちの味方でもない。でも、さすがに見てられないよ」
彼女が足を進めるたびに、かしゃりとガラスが軋む。
それに文句を言うこともなく。
彩は、力なく椅子に腰を下ろす。
その肩に手をかけながら。
明は再び、言葉を継いだ。
「彩さん ―― 」
「うん…」
「銘さんってね。僕からみても、ほんっと、どうしようもない人なんだ」
「……」
「僕があなたの立場でも、多分もの凄く腹が立ったと思うよ。けど…」
明は優しく、彩の両手を取る。
薔薇の棘に傷付けられたのか。
その手もすでに、血まみれだった。
「もう、いいでしょう?」
「……」
「もう、許してあげて」
「……」
「僕から言うことじゃないかもしれないけど。彼、じきに父親になるみたいで ――」
その言葉に。
銘はぎょっとして、明を見る。
けれど。
明はにこりともせずに、話し続けた。
「だから ―― 許してやってくれないかな?」
明がそっと手をさすると。
その上に、大粒の涙がこぼれた。
彩の細い体を抱擁しながら、明はその髪を撫で。
大丈夫、と何度も言い聞かせる。
丁度、自分の母親にいつもしているように。
そんな姿を見ているうちに。
銘は、死んでしまいたい気分に襲われていた。
馬鹿じゃないのか?
明の言う通りだろう?
二十九にもなって、責任の一つも取れないで。
一体何をやってるんだ、お前は?
自分を責める言葉しか思い浮かばない状態で。
それでも、彼は何とか立ち上がる。
痛みは全身に広がって、弱りかけた心臓は今にも止まりそうだ。
激しい眩暈と苦しさに耐えながら、椅子に腰を下ろすと。
タイミング悪く、電話が鳴り出した。
うつろな視線を明へ向けると。
察しのいい彼女は、ゆっくりと抱擁を解き。
電話の方へ向かって走っていく。
粉々になった絵を蹴散らしながら。
「 ―― はい、"Riot"です。ただいま取り込み中…えっ?」
軽快な声が、突然低くなる。
泣きじゃくる彩の傍に椅子を寄せ、肩を抱きながら。
彼は、カウンターの方を眺めていた。
悪い知らせか?
いや。
これ以上悪いことなんて、起こりようがない。
そんなことを思いながら。
「あ、はい。今見てみます」送話口を塞ぎながら、明が言う。「銘さん、テレビ点けていい?」
「誰?」
「本多さん」
「えっ?」
「テレビ点けてみろって。今すぐ」
「それはいいけど、どうして ―― 」
明がリモコンを向けると。
カウンターの上に備え付けてある液晶テレビが、息を吹き返す。
流れてきたのは、ニュース映像。
特別番組らしいのだが、銘の場所からは遠過ぎてよく見えない。
「今、点けてみたけど…あ、はい。どのチャンネルも同じみたい…」
「明、どうした?」
「…ちょっと待って」
子機を耳に当てたまま。
明は、画面を注視している。
やけに、真剣な顔をして。
「俺にだろう? 電話、代わってくれないか?」
「だから、ちょっと待ってって!」
一喝されて、銘は反射的に口を閉ざす。
その様子はただごとではない。
ボリュームを上げると、ようやく音声が聞き取れたけれど。
内容まではよく判らない。
やや苛立ちながらも。
銘は、もう一度声をかけてみる。
今、世間で何が起こっているのか。
本多が何を知らせようとしていうのか。
まるで見当がつかなかったからだ。
「明。教えてくれないか?」
「……」
「一体、何があった?」
「 ―― 逮捕されたって」彼女は、搾り出すような声で言う。「槙村英が」