第五十二話
「じゃあ話すけど ―― 彩さんは、知ってたかい?」
「何を?」
「二ヶ月前から、監視カメラをつけたこと」
「……」
「叔父貴に頼んで設置して貰ったんだ。ここ数ヶ月、あまりにも嫌がらせが多かったから」
「……」
彼がそう切り出すと。
途端に、彩は口を閉ざしてしまった。
組んだ指の上に、視線を落としながら。
さっきまでとは別人のように。
それを見た時。
彼は、嫌でも確信した。
ベッドの上の花弁も、店の前にぶちまけられた血や臓物も。
全て、彩が仕組んだことなのだと。
「 ―― どうして、あんなことしたの?」
「……」
「俺だけならまだしも。出演してる連中にまで、裏から手を回したりして…」
「……」
「彩さんは知らないかもしれないけど、彼等とは昨日今日の付き合いじゃないからね」
「……」
「幾ら金を積んで口止めしたところで。そういう話は伝わってくるものなんだ」
彩は、答えない。
黙ったまま、左手の指をいじっている。
ハリウッド女優のように、美しく磨き上げられた爪。
色とりどりのカラーストーン。
彩がまだ、シルクスクリーンをやっていた頃。
水洗いをするせいで、彼女の指先はいつも荒れていた。
けれど。
職人らしいその手が、彼は好きだった。
彼女の才能は、確かに素晴らしかった。
しかし。
槙村英と離れて、やっていけるものか。
周囲は皆、そう思っていた。
彼がいるからこそ、彩は芸術家の顔をしていられるのであり。
画廊で絵を売る身分でいられるのだと。
美術業界での陰口も酷評も。
彩は、最初から相手にしていなかった。
知り合った頃、彼女が見ていたのは、ずっと先の未来で。
輝かしい夢の世界だけだった。
それが今は、飾り物の妻として。
彼と二人、マスコミに顔を見せない日はない。
次第に変質していく彩の姿を、間近で見詰めながら。
彼は、嫉妬とも羨望とも違う喪失感を覚えていた。
彼女が寄ってたかって、別人に仕立てられていくような。
自分の知らない人間にされてしまったような感覚を。
長い沈黙。
音楽が止まると、明はカウンターから立ち上がり。
ラックを一通り眺めたあと、新しいCDをかけた。
チャールズ・ファンブロウの"The Proper Angle"。
幾分ボリュームを上げてくれたのは、彼女なりの気遣いだろう。
まだ二十一の若さとは思えないほど、大人びた発言をして。
いつもクールな明ではあるが。
見た目以上に繊細な人なのだ。
「…ごめんなさい」
かなり経ってから。
彩はようやく、言葉を発した。
けれど。
銘には、彼女を責めるつもりはなかった。
何故なら。
これからもっと、重大なことを打ち明けなければならず。
嫌でも、彼女に知らしめなければならない。
分別のある大人の振りをしていながら
自分が如何にいい加減で、卑怯な人間であるのかを。
「いいよ。そのことは。ビデオを確認した時は、ショックだったけど…」
「……」
「俺も最初は勝手に、君の旦那がしたことだと決め付けていたし」
「……」
「水道管を破られた時も、シャッターを焼かれた時も、被害はここだけで。怪我人は出なかったしね」
「……」
「俺に対する不満も、いろいろあったんだと思って…」
「違うの」遮るように、彩が言う。「そうじゃない」
「じゃあ、何故?」
「……」
「誰かに頼まれたのか?」
「……」
「脅されてたんだろう?」
「……」
「推測で申し訳ないけれど。周囲の男共に比べ、君はあまり気乗りしてない感じだったから」
「…銘さん」
「うん?」
「それが…あたしと別れたい理由?」
「全部じゃないよ。そのうちの一つではあるけれど」
「じゃあ、残りは何?」
彼は、目を閉じる。
煙草が吸いたかったが、そのためには、カウンターまで戻らなければならないし。
こんな場面で吸うのは、何だか似つかわしくない気がしたから。
彼は諦めて、頭の中で言葉を繋ぎ直す。
出来る限り、正確な表現で。
正確に、事実を伝えるために。
「…多分。この話をしたら、君は俺を軽蔑すると思うよ」
「ううん。そんなことない」彼女は、首を振る。「絶対に」
「気持ちはありがたいけれど。それは無理だと思う」
「どうして?」
「……」
「ねえ。見損なわないで。あたし、芸術家なのよ? その辺の女と一緒にしないで欲しいな」
「……」
「銘さんがあたしを捨てることはあっても、あたしが銘さんを嫌いになるなんてありえないもの」
「…そうかな?」
「約束する」明るい声で、彼女は話しかけてくる。「何でも話して。あたし、絶対受け止められるから」
俯く彼の顔を、彩は覗き込んで。
懸命に、言葉をかけてくれる。
その優しさが、一途さが嬉しかったけれど。
銘は少しも楽観してはいなかった。
だから。
いつも以上に慎重に、言葉を繋いだ。
なるべく、感情を表さないようにして。
「 ―― 縒りを戻すつもりなんだ。修子と」