第五十一話
笑顔の彩を目の前にした途端。
彼は、何も言えなくなってしまった。
これまでの苛立ちも、後悔も。
彼女の無邪気さの前にはいつも、掻き消されてしまう。
愛らしい顔立ち、以前より伸びた髪。
鮮やかな手付きで脱いだコートの下には、薔薇に負けない深紅のキャミソール。
細い首筋と、抜けるように白い肌。
無心に自分を見詰めてくる大きな瞳。
あの日、病院で出会った時と同じ。
しかし。
彼は、寸前で思いとどまった。
なし崩し的に、彩を受け入れることを。
明が言うように。
どれほど愛そうと、どれほど欲しようと。
彼女は、槙村英のもので。
自分のものにはなりえない女性だ。
そうと知りながら、彼女を求め。
彼女に溺れ続けたこの四ヶ月。
しかし。
そのたった四ヶ月の間に、事態は驚くほど変わってしまった。
取り返しのつかない方向に。
彼の予想もしていなかった方角に。
薔薇を受け取ることもなく。
彼は、静かに彩を見返した。
二人でいる時の彼女は、従順で、可愛らしくて。
ネット上での発言が嘘のようだった。
彩の言葉に、何度となく傷付けられながらも。
銘はやはり、彼女から離れられずにいた。
周囲の顰蹙を買い、槙村からの挑戦を受け。
いけないことと知りながら、その思いを貫いてきた。
けれど。
それももう、終わらせなくてはならない。
この件はすでに、多くの人を巻き込んで。
彼一人の手に負えなくなっている。
少なくとも。
例え、彩を泣かせたとしても。
修子がそれを拒否したとしても。
自分がしでかしたことの責任は取らなければならない。
その思いと、オブザーバーである明の存在が。
今にも揺れてしまいそうになる彼を、現実に繋ぎとめていた。
「…彩さん」
「うん?」
「大事な話があるんだ」
出来る限り、真剣にそう言ったのに。
彩は、きょとんとしている。
いつもと同じように。
「なぁに?」
「ただ、ここじゃちょっと…」
ちらりと、カウンターを見やると。
明は、肩を竦めて見せた。
「僕だって客だからね」悪びれずに、そんなことを言う。「ステージの方なら、さほど聞こえないよ」
「あのな。頼むから…」
そう言いかけると。
彩は、にっこり笑った。
「あら、別にいいじゃない? 明さんの言う通りよ」
「いや、でも…」
「それとも、聞かれちゃまずい話なの?」
「まずいというか…」
「何それ?」彼女は、くすくす笑う。「ひょっとして、あたしと別れたいとか?」
「実は ―― そうなんだ」
そんな言葉を口にした途端。
店の空気は、瞬時に凍りつく。
彩は、真っ直ぐに彼を見上げ。
視界の端に映る明は、また譜面を書き続けている。
流れているのは、キャノンボール・アダレイの"Know What I Mean"。
偶然とはいえ、タイミングが悪過ぎる。
呆然としている彩の背を抱いて、ステージ前の席に座らせると。
彼女は大きな花束を、どさりとテーブルの上に置く。
しばしの沈黙のあと。
可憐な唇からは、予想通りの言葉が溢れ出す。
「ねえ、どういうこと?」
「……」
「冗談でしょう?」
「…いや」
「どうして突然、そんなこと言うの?」
「突然って訳じゃない。ずっと考えてた」
「……」
「最初は、何も見えてなかった。君の夫のことも。周りのことも」
「……」
「それが、次第に見えてきた。自分が今、何をしているのかを」
「何言ってるの? そんなの、最初から承知の上だったでしょう?」
「……」
「あたしもうすぐ、フリーになれると思って。一生懸命やってきたのに」
「……」
「槙村英の妻じゃなく、画家として一人立ちするつもりだったのに」
「……」
「何度も話したでしょう? そのことは」
「知ってるよ。だけど…」
「銘さんは、あたしをどうしたいの?」
「どうしたいって…」
「だってそうでしょう? これからっていう時に。勝手に弱気になって!」
「そう取られても仕方ないよ。何を言われても…」
「あたしなんか、どうなったっていいんでしょう?」
「そんなことは思ってないよ。ただ…」
「亭主がいるから。どんな酷い別れ方しても、そっちが面倒見てくれるだろうって。そう思ってるんでしょう?」
「ねえ、彩さん」彼は、さすがに困惑した。「もうちょっと、冷静に話せないか?」
「冗談じゃないわよ! あたし、振ったことはあっても、振られたことなんかないんだから!」
「……」
「これまで酷い男にばっかり引っ掛かって。そのたび傷付いて。でも、銘さんだけは違うって。それなのに…」
「……」
「ねえ、はっきり言ってよ。あたしの何処が気に食わないの?」
「……」
「主人がいるところ? それとも、エキセントリックなところ?」
「…そうじゃないよ」
「じゃあ何? 一体、何が不満なの?」
「……」
「言えないの?」
「…言ってもいいのかい?」
「当たり前でしょう? 隠し事は沢山。言って頂戴!」
毒々しい色の薔薇を、ぼんやりと眺めながら。
彼は、長い間迷っていた。
本当に言ってもいいのか。
けれど。
言わなければ、彩は絶対に納得しないだろう。
微かな頭痛を覚えながら。
銘は、静かに口を開いた。
彩に伝えるために。
これまで、誰にも打ち明けず。
誰にも話していなかった事実を。