第五話
「…こんばんは」
ドア越しに、呼びかけてくる声に。
彼は、はっとした。
慌てて、楽器を立てかける。
「まだ、いいですか」
「ええ。こちらこそすみません。気付かなくて…」
そう言ってドアを開けた時。
彼は思わず、息を呑んだ。
彩が、そこに立っていたからだ。
彼女は真っ直ぐに、銘を見据えてくる。
「この前は、すみませんでした…」
そう言うと彼女は、丁重に頭を下げた。
「わたし、ずっと気になっていて。どうしても、謝りたくて…」
「あ、いえ。気にしないで下さい。俺も迂闊なことを言ったみたいだし」
「そんな。郁崎さんのせいじゃ」
「いや、いいんです。ほんとに。正直な話、忘れてたぐらいですから」
そこで。
言葉は、ふっと途絶えた。
たちまち湧き上がる、緊張感。
しんとした空間で。
二人はしばらく、瞳を合わせていた。
そうしながら。
銘は彼女に、何もかも見透かされてしまいそうな気がしていた。
やがて。
彼の動揺を察したかのように、彩は言った。
「…珈琲、戴けますか?」
彼はようやく、我に返った。
「あ、はい」
頷きながら、カウンターへ戻る。
ふと気付いて、アンプのボリュームを上げると。
スピーカーからは、"Evans at the Montreux Jazz Festival"が流れ出す。
彼女はちょっと微笑んで、前と同じスツールに腰を下ろした。
今日の彩は、カジュアルな格好だった。
殴り書きのようなオレンジ色を散らした黒地のキャミソールに、
色褪せたジーンズ地のスカート。
リゾート調のサンダルを履き、ペディキュアは、同色のオレンジに銀。
その華奢な肩、胸元の白さから、彼は、どうしても目を逸らすことが出来ない。
「…練習、されてたんですか?」
「ええ、まあ。今日は暇だったもので」
「お邪魔しちゃったみたいで」
「まさか。まだ、営業中ですから」
「良かった」
彼女は、くすくす笑った。
それから、思い掛けないことを言う。
「今日はどうしても、お会いしたかったから」
その言葉を耳にして。
胸の奥が、ぴくりと音を立てた。
これまで誰にも感じたことのない疼き。
この時。
彼は、彩に会うたびに、心を掻き乱されている自分に気付いた。
こんなことは、初めてだった。
いつもの手順で珈琲を淹れ、彼女に差し出す。
小さく会釈してから、彩はカップを手に取った。
「この前淹れて戴いたのが、凄く美味しかったから。癖になっちゃいました」
「それは良かった。実は、あんまり自信ないんですよ」
銘はほっとして、笑顔を返す。
彼女はそれを一口啜ると、店の中を見渡した。
「珍しいですよね。こういうお店で、こんな時間に珈琲が飲めるなんて」
「本当は、午後6時までなんですよ」
「え?」
「でも、いいんです。どうせ他に、お客さんもいないから」
「すみません。いつも、甘えてばっかりで」
そう言うと彼女は、一枚の葉書を取り出した。
「そうでした。これを、届けに来たんです」
彼は、その葉書を受け取った。
光沢のある表面には、美しい萌黄色を基調としたランドスケープ。
裏には、銀座の画廊の名前が印刷されている。
「久し振りに個展を開くので。是非、郁崎さんにも来て戴きたくて」
「え、いいんですか?」
「はい。いつでも、ご都合のいい時に」
「判りました。ありがとうございます」
それから。
10分ほど話をしたのちに、彼女は席を立った。
「じゃ、お支払いを…」
「あ、いいです」
「でも、この前もそうだったじゃないですか」
「誘って戴いたお礼ということで」
彼女はしばらく迷っていたが、根負けして、財布をバッグに収めた。
「いつも、すみません」
「いえ」
彼は、彩と共に、狭い階段を上がった。
深夜1時を過ぎ、大通りは、タクシーと酔客で溢れ返っている。
「じゃ、お待ちしています」
そう言って立ち去ろうとする彼女の背後に。
彼は咄嗟に、声をかけていた。
「彩さん!」
彼女は、はっとしたように振り返る。
シャッターをロックして、銘は、彼女に走り寄る。
愛らしい瞳が、こちらを見上げている。
「送りますよ、ご自宅まで」
「え?」
「こんな時間だし。万が一何かあったら…」
「あ、大丈夫です。タクシーで帰りますから」
「どちらなんですか?お住まいは」
「芝浦です。だから、ここからすぐですし」
「いや、すぐって距離でもないでしょう。送らせて下さい」
彼女は悩んだ末に、ようやく首を縦に振った。
近くの駐車場まで、二人は、並んで歩いていく。
銘のランドクルーザーが、公道に出るまでの間。
彼女は黙って、歩道に佇んでいた。
再び起こる、奇妙な既視感。
しかし。
彼はそれを、敢えて黙殺した。
「どうぞ」
「すみません」
会釈しつつ、彼女は乗り込もうとする。
彼は特に意識せず、手を差し出した。
車高があるので、小柄な彩には乗り辛いと思ったのだ。
彩も素直に、その手を取った。
その時だった。
繋いだ手から、何かが伝わってきたのは。
感情の渦のような何かが、もの凄い勢いで、自分の中に流れ込んでくる。
刹那。
脳裏には、例の夢が蘇る。
あの、奇妙な渚の記憶が。
鮮血の感触が。
突然のことに。
彼は反射的に、手を振り解いてしまう。
彼女は、驚いたようだった。
「…何か?」
「あ、いえ。すみません」
必死に動揺を堪えつつ、もう一度手を差し伸べる。
小さく、柔らかい感触。
今度は何もなかった。
ややほっとしつつ、彼は、ギアをローに入れ。
それから、海岸通りを真っ直ぐに進んだ。
途中。
埠頭の近くで、彩は、車を止めさせた。
「ここから、すぐですから」
「こんなところで?」
彼は、驚いた。
その周囲にはとても、人家などあるようには見えなかった。
「大丈夫ですか? もっと近くまで、行ってもいいんですよ?」
「はい。大丈夫です。ほんとに、ありがとうございました」
そう言って、車を降りたあと。
彼女は、真っ暗な埠頭目掛けて歩いていく。
気にはなったが、彩が固辞している以上、無理強いする訳にもいかない。
彼は一度、溜息をついてから、ハンドルを切る。
それからあらためて、煙草に火を点けた。
(さっきの、あの感触は、一体何だったのだろう)
軽い痺れのようなものは、まだ、彼の手に残されていた。
(彼女と俺との間には、何か、繋がりでもあるのだろうか)
どれだけ考えても、彼には判らなかった。
それが、一体何なのか。
しかし。
彼は、予感していた。
再び彩と会う時、彼女と自分との間に、何か避けられない事態が起こることを。
否。
それは既に予感ではなく、間違いのない現実として、彼の前に立ちはだかっている。
銘はそのことを、認めたくないだけなのだ。
煙草を消すと、あとには、薄暗い空白が残されているような気がした。
彼女の不在は、束の間、彼を惑わせた。
「考え過ぎだよな。また、明に怒られちまう」
彼は首を振り、窓を開け放した。
湿気をたっぷりと含んだ、都市の生暖かい空気が流れ込んでくる。
その風に身を任せながら。
銘は、何とかそれを振り払おうとした。
思いがけない運命に、知らず、巻き込まれていくような予感を。