第四十九話
本多が口にした、思い掛けない事実を。
その言葉の意味を、銘は一瞬捉え損なって。
何度も、頭の中で繰り返す。
それが一体、どういう意味を持つのか。
どういう影響を及ぼしていくのか。
彼は瞬時に認識したけれど。
理性は、頑なに理解を拒んでいる。
何故なら。
彼は、知っているからだ。
本多と同じように。
その子供の父親が、果たして誰であるのかを。
長い長い沈黙。
国際電話特有の、低いハムノイズ。
その向こうでまた、からんと音がする。
本多がグラスを揺らしているからだ。
「…驚いたか?」
本多の問いかけに。
銘は、答えられなかった。
考えれば考えるほど、頭の中は混乱して。
文字通り、真っ白になっていく。
「お前には、説明しておいたもんな。俺が可南子と離婚する時、呑まされた条件を」
「……」
「女ってのは、恐ろしいもんだ。さすがの俺も、まさかあんな形で、復讐されるとは思わなかった」
「……」
「口には出さないが、相当恨みに思ってたみたいでね。あちこちに女作りまくってたことを」
「……」
「結婚しているうちはまだ良かったんだ。いざ離婚するとなったら、手の平返すみたいになってな」
「…ええ」
「切らなきゃ離婚は承諾出来ないと。要するに、よその女と子供作られたくなかったんだろう」
「……」
「だから、ありえないんだよ。どう考えても。俺の子供である訳がない」
「……」
「判るか? 俺の言ってる意味が」
彼の言葉を聞いている間でさえ。
銘にはまるで、実感が湧かなかった。
可能性があるとしたら、札幌で彼女と会った時で。
それ以外には、考えられなかった。
「 ―― 銘?」
「あ、はい」彼は、必死に言葉を探す。「聞いてます。ただ…」
「ショックなんだろう?」
「はい…ショックというか…」
銘が言葉に詰まると。
本多は、優しい声でこう続けた。
「それにしても ―― 皮肉なもんだな、お互い」
「……」
「何でこんなことになるかな?」
「……」
目を閉じて、彼の溜息を聞きながら。
もう、どうしていいか判らなくなっていた。
あの時修子は、その事実を打ち明けに来たのだろう。
そこへ偶然彩が現れて、話せなくなった。
何も話せず、真実を抱えたまま。
タクシーに乗った彼女は、一体どんな気持ちでいたのか。
自分一人で、何もかも抱え込んで。
これから先、どうするつもりだったのか。
「…本多さん」
「うん?」
「彼女、知ってるんですか?」
「何を?」
「あなたが、子供を作れない体であることを」
「知らないよ。言う必要もない」
「……」
「彼女が、切羽詰まって俺を頼ってきた以上。突き放す訳にいかないだろう?」
「……」
「お前と以前何があろうと、今、実際に一緒にいるのは俺だからな」
「…そうですね」
「彼女にも言ったけど。好きでもない女を連れ歩くほど俺は酔狂じゃないし」
「……」
「お前がyesと言うなら、遠慮なく先へ進ませて貰うぞ」
「……」
「その代わり。このことは死ぬまで口外するなよ。叔父貴にも。他の誰にも」
「……」
「お前と俺の間だけの話だからな」
「でも…」
「うん」
「それで、いいんですか?」
「良くはないさ」本多は、あっさり言う。「彼女だって無傷じゃない。充分苦しんでる」
「……」
「自分の子供だろうと、そうじゃなかろうと。俺は気にしないし。血の繋がりなんか端から信じちゃいないしな」
「……」
「それとも。全部正直に打ち明けて、お前が彼女を引き取るか?」
「えっ?」
「そうすれば、全部丸く収まるだろう?」
「いや、それは…」
「今更出来ないって?」
「……」
「なあ、銘。俺は、責めてる訳じゃない。大したことじゃないさ、こんなことは。少なくとも俺にとっては」
「……」
「ただ ―― お前が、この事実を受け入れられるかどうかってことだな」
「……」
「長くなったが。俺の考えは今言った通りだ。万が一気が変わったら、電話してくれ」
「……」
「じっくり考えてみろ。お前のために、彼女のために。腹の赤ん坊のために。どうするのが一番いいのか」
「……」
「明後日の飛行機で、彼女は戻ってくる予定だ。出来れば、それまでに返事してくれよ」
「…はい」
「じゃあな」
「はい」
本多が電話を切るのを確認してから。
彼はようやく、終話ボタンを押し。
子機を置き、両腕を組むようにして。
そのまま、カウンターの上に突っ伏した。
修子との会話を、これまであったことを思い出しているうちに。
またずきずきと、胸は痛み出す。
息も出来ないほどに。
考えが纏まらないまま、空は白み始め。
道路へ面した窓が、ブルーから朝焼け色にゆっくりと変化した。
その半分が、毒々しい血の色に染まっていくのを。
銘はぼんやり眺めていた。
眺めながら、思い出していた。
昨日、本多と交わした会話と。
ここ数日の出来事を。
( ―― 皮肉なもんだな、お互い)
そんな本多の言葉が。
彼の潔い決断が。
いつまでも、頭から離れなかった。