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青の旋律  作者: 一宮 集
48/55

第四十八話

久し振りに耳にする本多の声に。

銘は、緊張を隠せなかった。

それでも。

再びカウンターに移動して、高いスツールに腰を下ろし。

敬愛するピアニストからの言葉を受け止める覚悟を決めた。

法学部卒の本多の口から、主文という言葉が発せられた以上。

悪い知らせであることに違いはなく。

ただ。

それが何であるかは、想像もつかなかった。



「 ―― 修子ちゃんに会ったか?」


「あ、はい」


「直接、話したか?」


「ええ」


「そうか」彼はまた溜め息をつく。「じゃあ、それほど驚いたりしないな」


「ご結婚のことですよね?」


「まあな」


「おめでとうございます」


反射的に発した言葉は、恐ろしく乾いていて。

銘は一瞬、しまったと思ったのだが。

本多にはすぐに、見透かされてしまった。


「何言ってやがる。本心でもない癖に」


「そんなこと…」


「本当に嘘つきだな、お前は」


「……」


「どうしようもない奴だ」


「……」


「そこがまた、可愛くて。憎たらしいところでもある」


「……」


電話の向こうで。

からん、と氷が揺れる音がした。

目に浮かぶのは、彼がロックグラスを眺めている姿。

ライブのあと、打ち上げの席で。

周囲の喧騒に紛れつつ、自らバーボンを注ぎ。

琥珀色の液体を飽かずに眺めている癖が、本多にはあった。

彼がグラスを弄んでいる時は大抵、何かしら思い悩んでいる場合で。

重大な決断を迫られている時期であることが多かった。

だから。

銘は黙したまま、彼の言葉を待つ。


「…銘」


「はい」


「俺は、決めたからな」


「……」


「いい加減、遊んでる年齢(トシ)じゃないし。彼女を幸せにしたいしな。今度こそ」


「……」


「出来れば、正式な形にしたかったんだが。あの通りの子だから…」


「ええ」


「俺も二度目だし。今回は内輪だけで済ませておくつもりなんだ。お前には悪いけど」


「いえ。お気遣いなく」


「いろいろ考えるよ。よりによって、娘みたいな年頃の子を嫁に貰うなんて、とかな」


「……」


「お前も知っての通り、俺は病気だから。この先、可南子と同じ思いを、修子ちゃんにさせないとも限らん」


「……」


「右も左も判らない小娘を、パリに置きっ放しにしなきゃならないし。それに彼女が耐えられるかどうか」


「…本多さん」


「うん?」


「それは…質問なんですか? それとも、相談ですか?」


「どっちでもない。単なる報告のつもりだ」


「……」


「聞きたくないか? こんな話」


「いえ。そうじゃなくて…」


「何か引っ掛かるか?」


「最初に仰った、主文という言葉の意味が判らなくて」


「ああ」彼は、またからんと音を鳴らす。「それな」


「何か、良くないことでも?」


「いや、良くないことじゃないさ。むしろめでたいことじゃないか? 世間的には」


ぶっきらぼうな言葉に。

銘は、何とも言えない違和感を覚えていた。

結婚の報告にしては冗長過ぎるし。

本多らしからぬ迷いや、葛藤さえ感じられる。

これはどういうことだろう、と銘は考えた。

彼はまだ迷っているのか?

彼女と結婚することを。

それとも。

俺に気を遣っているだけなのか?



銘が訝しんでいると。

察してか、本多は急に話題を変えた。

それも、思い掛けない方向に。


「 ―― ところで。槙村英の方はどうなった?」


「え?」


「いろいろ、酷い噂を聞いてるからな。お前が大変な目に遭ってるって」


「いえ、そんなことは…」


「隠さなくてもいい。叔父貴の事務所にまで、匿名メールが殺到してるそうだ。お前を辞めさせろと」


「……」


「あと、音楽関係の雑誌や番組、プロダクション、プロモーターにまで圧力がかけられてる」


「……」


「あいつの女房を寝取ったから、恨みを買ったのか?」


「…判りません。でも ―― 」


「うん」


「そうされても、仕方のないことですから…」


「馬鹿言うなよ。何でお前一人が、悪者にされなきゃならない?」


「……」


「詳しいことは知らんが、お前は一度は筋を通そうとしたんだろう?」


「それは、そうですけど…」


「槙村彩の公式ブログ、見たことあるのか? 店の名前はおろか、実名まで晒されてるんだぞ?」


「えっ?」


「ひょっとして。お前、ネットやらないのか?」


「ええ。全く…」


「だからか」彼は、舌打ちする。「それなら良かった。見なくて正解だ」


「何処にあるんですか、それ?」


「見る必要なんかない。時間の無駄だ。ブログ上の発言なんて、書いてる人間の主観でしかないんだからな」


「……」


「とにかく。まだ未練はあるだろうが、いい加減目を覚ませ」


「……」


「何とかして手を切れ。お前が反論出来ないのを知ってて、ネットで陰口叩く女なんかろくなもんじゃないぞ」


「……」



彼の溜息を、耳元に聞きながら。

銘は堪え切れずに、煙草に手を伸ばす。

ショックだった。

信じられなかった。

自分の知らないところで、彩がそんなことを言っていたなんて。

真剣な思いを、笑いものにされていたなんて。

だとしたら。

あれは、嘘だったのか。

愛しているという言葉も、毎日のメールも。

全て、嘘だったのか。




これまでのいきさつのみならず。

お互いの会話やメールの内容まで、断りもなく晒されていたことを知り。

銘は、完全に打ちのめされていた。

誰とも口を聞きたくないくらいに。

無邪気な彩のこと。

恐らく悪気はなかったのだろう。

彼はそう思った。

けれど。

それは思わぬ場所で、周囲を巻き込んで。

研ぎ澄まされた刃となって戻ってきた。

それは誰のせいでもなく。

自分の責任だ。


自業自得という言葉を、何度となく思い浮かべながら。

絶望の中で、銘は思う。

馬鹿なのは自分だと。

こんな形で裏切られるとは、夢にも思わずに。

彼女を信じ、庇い続けていた自分が。

救い難い馬鹿だったのだと。

だから。

もう終わらせなければと思った。

例え悪者にされても、世間から今以上の非難を浴びても。

彩に対する気持ちが真剣だからこそ。

未練があるからこそ、潔く身を引かなければと思った。




「 ―― 銘」


「…はい」


「大丈夫か?」


「ええ」彼は、目頭を抑える。「大丈夫です」


「もしまた何か、お前の身辺で嫌なことがあったら。連絡してくれ」


「……」


「俺だって、多少のコネクションはある。槙村英がこれ以上お前を苦しめるなら、俺にも考えがある」


「そんな。本多さんにそんなことして戴く義理はありません」


「義理だって?」彼は初めて笑った。「何馬鹿なこと言ってる。俺がそんなことで動く人間だと思ってるのか?」


「……」


「ニューヨークでお前と知り合って。一緒にツアーして…」


「……」


「悔しいけどな。どんな一流どころとやっても、俺は忘れられないんだ。あの頃のお前のベースが」


「……」


「今は無理かもしれないが。お前は、いつかはここに戻ってくるべき人間なんだ」


「……」


「だから、ちゃんと話しておかなきゃと思って電話したんだ」


「ええ…」銘は、やっとの思いで返事をする。「ありがとうございます」


「何処まで話したっけ? 槙村英の件と。あと、結婚の件は報告したよな?」


「はい」


「ああ、そうだ。赤ん坊の件はまだ話してなかったな」


「赤ん坊の件?」銘は、首を捻った。「ええ、まだ伺ってませんでしたが」


「まだ伺ってませんって…お前、修子ちゃんから聞いてたんじゃなかったのか?」


「…何のことです?」


そう問い返すと。

本多は、本気で呆れているようだった。

その意味さえ、銘には判らない。

この言葉を聞く瞬間までは。


「 ―― 妊娠してるんだよ、彼女」本多は、つっけんどんに言う。「じきに、五ヶ月になる」






 

 

 



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