第四十八話
久し振りに耳にする本多の声に。
銘は、緊張を隠せなかった。
それでも。
再びカウンターに移動して、高いスツールに腰を下ろし。
敬愛するピアニストからの言葉を受け止める覚悟を決めた。
法学部卒の本多の口から、主文という言葉が発せられた以上。
悪い知らせであることに違いはなく。
ただ。
それが何であるかは、想像もつかなかった。
「 ―― 修子ちゃんに会ったか?」
「あ、はい」
「直接、話したか?」
「ええ」
「そうか」彼はまた溜め息をつく。「じゃあ、それほど驚いたりしないな」
「ご結婚のことですよね?」
「まあな」
「おめでとうございます」
反射的に発した言葉は、恐ろしく乾いていて。
銘は一瞬、しまったと思ったのだが。
本多にはすぐに、見透かされてしまった。
「何言ってやがる。本心でもない癖に」
「そんなこと…」
「本当に嘘つきだな、お前は」
「……」
「どうしようもない奴だ」
「……」
「そこがまた、可愛くて。憎たらしいところでもある」
「……」
電話の向こうで。
からん、と氷が揺れる音がした。
目に浮かぶのは、彼がロックグラスを眺めている姿。
ライブのあと、打ち上げの席で。
周囲の喧騒に紛れつつ、自らバーボンを注ぎ。
琥珀色の液体を飽かずに眺めている癖が、本多にはあった。
彼がグラスを弄んでいる時は大抵、何かしら思い悩んでいる場合で。
重大な決断を迫られている時期であることが多かった。
だから。
銘は黙したまま、彼の言葉を待つ。
「…銘」
「はい」
「俺は、決めたからな」
「……」
「いい加減、遊んでる年齢じゃないし。彼女を幸せにしたいしな。今度こそ」
「……」
「出来れば、正式な形にしたかったんだが。あの通りの子だから…」
「ええ」
「俺も二度目だし。今回は内輪だけで済ませておくつもりなんだ。お前には悪いけど」
「いえ。お気遣いなく」
「いろいろ考えるよ。よりによって、娘みたいな年頃の子を嫁に貰うなんて、とかな」
「……」
「お前も知っての通り、俺は病気だから。この先、可南子と同じ思いを、修子ちゃんにさせないとも限らん」
「……」
「右も左も判らない小娘を、パリに置きっ放しにしなきゃならないし。それに彼女が耐えられるかどうか」
「…本多さん」
「うん?」
「それは…質問なんですか? それとも、相談ですか?」
「どっちでもない。単なる報告のつもりだ」
「……」
「聞きたくないか? こんな話」
「いえ。そうじゃなくて…」
「何か引っ掛かるか?」
「最初に仰った、主文という言葉の意味が判らなくて」
「ああ」彼は、またからんと音を鳴らす。「それな」
「何か、良くないことでも?」
「いや、良くないことじゃないさ。むしろめでたいことじゃないか? 世間的には」
ぶっきらぼうな言葉に。
銘は、何とも言えない違和感を覚えていた。
結婚の報告にしては冗長過ぎるし。
本多らしからぬ迷いや、葛藤さえ感じられる。
これはどういうことだろう、と銘は考えた。
彼はまだ迷っているのか?
彼女と結婚することを。
それとも。
俺に気を遣っているだけなのか?
銘が訝しんでいると。
察してか、本多は急に話題を変えた。
それも、思い掛けない方向に。
「 ―― ところで。槙村英の方はどうなった?」
「え?」
「いろいろ、酷い噂を聞いてるからな。お前が大変な目に遭ってるって」
「いえ、そんなことは…」
「隠さなくてもいい。叔父貴の事務所にまで、匿名メールが殺到してるそうだ。お前を辞めさせろと」
「……」
「あと、音楽関係の雑誌や番組、プロダクション、プロモーターにまで圧力がかけられてる」
「……」
「あいつの女房を寝取ったから、恨みを買ったのか?」
「…判りません。でも ―― 」
「うん」
「そうされても、仕方のないことですから…」
「馬鹿言うなよ。何でお前一人が、悪者にされなきゃならない?」
「……」
「詳しいことは知らんが、お前は一度は筋を通そうとしたんだろう?」
「それは、そうですけど…」
「槙村彩の公式ブログ、見たことあるのか? 店の名前はおろか、実名まで晒されてるんだぞ?」
「えっ?」
「ひょっとして。お前、ネットやらないのか?」
「ええ。全く…」
「だからか」彼は、舌打ちする。「それなら良かった。見なくて正解だ」
「何処にあるんですか、それ?」
「見る必要なんかない。時間の無駄だ。ブログ上の発言なんて、書いてる人間の主観でしかないんだからな」
「……」
「とにかく。まだ未練はあるだろうが、いい加減目を覚ませ」
「……」
「何とかして手を切れ。お前が反論出来ないのを知ってて、ネットで陰口叩く女なんかろくなもんじゃないぞ」
「……」
彼の溜息を、耳元に聞きながら。
銘は堪え切れずに、煙草に手を伸ばす。
ショックだった。
信じられなかった。
自分の知らないところで、彩がそんなことを言っていたなんて。
真剣な思いを、笑いものにされていたなんて。
だとしたら。
あれは、嘘だったのか。
愛しているという言葉も、毎日のメールも。
全て、嘘だったのか。
これまでのいきさつのみならず。
お互いの会話やメールの内容まで、断りもなく晒されていたことを知り。
銘は、完全に打ちのめされていた。
誰とも口を聞きたくないくらいに。
無邪気な彩のこと。
恐らく悪気はなかったのだろう。
彼はそう思った。
けれど。
それは思わぬ場所で、周囲を巻き込んで。
研ぎ澄まされた刃となって戻ってきた。
それは誰のせいでもなく。
自分の責任だ。
自業自得という言葉を、何度となく思い浮かべながら。
絶望の中で、銘は思う。
馬鹿なのは自分だと。
こんな形で裏切られるとは、夢にも思わずに。
彼女を信じ、庇い続けていた自分が。
救い難い馬鹿だったのだと。
だから。
もう終わらせなければと思った。
例え悪者にされても、世間から今以上の非難を浴びても。
彩に対する気持ちが真剣だからこそ。
未練があるからこそ、潔く身を引かなければと思った。
「 ―― 銘」
「…はい」
「大丈夫か?」
「ええ」彼は、目頭を抑える。「大丈夫です」
「もしまた何か、お前の身辺で嫌なことがあったら。連絡してくれ」
「……」
「俺だって、多少のコネクションはある。槙村英がこれ以上お前を苦しめるなら、俺にも考えがある」
「そんな。本多さんにそんなことして戴く義理はありません」
「義理だって?」彼は初めて笑った。「何馬鹿なこと言ってる。俺がそんなことで動く人間だと思ってるのか?」
「……」
「ニューヨークでお前と知り合って。一緒にツアーして…」
「……」
「悔しいけどな。どんな一流どころとやっても、俺は忘れられないんだ。あの頃のお前のベースが」
「……」
「今は無理かもしれないが。お前は、いつかはここに戻ってくるべき人間なんだ」
「……」
「だから、ちゃんと話しておかなきゃと思って電話したんだ」
「ええ…」銘は、やっとの思いで返事をする。「ありがとうございます」
「何処まで話したっけ? 槙村英の件と。あと、結婚の件は報告したよな?」
「はい」
「ああ、そうだ。赤ん坊の件はまだ話してなかったな」
「赤ん坊の件?」銘は、首を捻った。「ええ、まだ伺ってませんでしたが」
「まだ伺ってませんって…お前、修子ちゃんから聞いてたんじゃなかったのか?」
「…何のことです?」
そう問い返すと。
本多は、本気で呆れているようだった。
その意味さえ、銘には判らない。
この言葉を聞く瞬間までは。
「 ―― 妊娠してるんだよ、彼女」本多は、つっけんどんに言う。「じきに、五ヶ月になる」