第四十七話
葵が帰ってしまうと、店はがらんと静まり返った。
いつもと同じように。
軽い頭痛を覚えた銘は、スツールに腰を下ろしたのだが。
さすがに、煙草に手を出す気にもなれない。
( ―― 俺は一体、何をやってるんだろう?)
葵との会話を思い出しながら、彼は溜息をつく。
若者らしい真剣さに胸打たれる一方で、そんなことは長くは続かないぞと揶揄する自分。
そのシニカルさが、我ながら嫌になる。
槙村英が帰国して以来、彩はすっかり変わってしまった。
滅多に繋がらない電話と、辻褄の合わない話。
彼女に愛していると言われるたびに、彼は苛立って。
ニュースでその姿を見るたびに、うんざりさせられる。
今はもう、何もかも知っていた。
貞淑な妻の振りをして、複数の男と通じていることも。
そういうことをして平気な女であることも。
周囲が噂していた通り。
騙されたとは思わなかった。
彼は彼で、あの時確かに彩を愛し。
彼女もまた、その思いに応えてくれたのだから。
けれど。
銘はもう、疲れ果てていた。
見えない相手からの営業妨害や、世間の冷たい目。
妾の子と陰口を叩かれ、肩身の狭い思いをしていた自分が。
まさか、その父と同じことをするとは。
一時の恋情に絆され、道を踏み外す羽目に陥るとは。
彼は、夢にも思っていなかったのだ。
久し振りに、ブライアン・ブロンバーグのCDをかけ。
葵がコピーしていたのと同じフレーズを口ずさみつつ。
彼は一人、店内を見回した。
地上から続く階段の下に、入り口のドアがあり。
入ってすぐ正面に、彼のいるカウンターがある。
その左手に、三十名ほどが座れる客席。
店の一番奥にステージがあり、左側手前にYAMAHAのG3。
本多が以前、自宅で使っていたものだ。
このビル自体が、馨の持ち物ではあるけれど。
家賃収入0という訳にはいかない。
これ以上売り上げが落ちるようなら、やり方を考えなければならないだろう。
そう思いながらも。
いいアイディアなど、湧いてくる筈がない。
馨が自ら店を切り盛りしていた頃。
毎週のギグには、入りきらないほどの客が押し寄せて。
階段からその上まで、ぎっしりと人が並んでいたものだ。
伝統あるこの店を、任せると言われた時。
銘はさすがに驚いて、必死に固辞したのだが。
オーナーであり、友人でもある彼は、頑として聞き入れなかった。
例えツアーに出られなくても、ベースが弾けなくなっても。
プロであろうと、アマチュアであろうと。
音楽を愛する以上、何処までもそれと関わっていくべきだと。
それが、彼の自論でもあり。
同時に激励でもあった。
病のために翼を折られ、飛ぶ術を失った銘に対する。
この店を、俺が潰すことになるのか。
そう思うと、切なかった。
ようやく煙草に火を点け、深々と紫煙を吸い込みながら。
しんとした空間に、ブロンバーグの重厚な低音が響いている様を。
彼は、ぼんやりと聴いていた。
明や圭介、徹や葵。
年若いミュージシャン達が、健気に頑張っているのに。
週末の客足はさっぱりだった。
噂を聞きつけたファンが、辛うじて駆けつけてくれはするが。
数多くのミュージシャンを迎えていた頃が、まるで嘘のように思える。
それも、俺のせいだ。
俺が、馬鹿なことばかりやっているから ――
煙草を揉み消そうとした刹那。
突然、電話のベルが鳴る。
どきっとした。
時計を見ると、七時を回ったばかり。
嫌な予感が胸を覆っていく。
けれど。
相手が誰であろうと、今更逃げる訳にはいかない。
意を決して、銘は立ち上がる。
取り上げた子機は、辛抱強く鳴っている。
液晶ディスプレイには、表示圏外の文字。
国際電話だ。
「…はい。Riotです」
そう言って出たものの、相手は何も言わない。
回線の状態が悪いのか、微かなグラウンドノイズが聞こえてくる。
一瞬、いつもの無言電話かと思ったのだが。
銘は黙って、相手の反応を待った。
「 ―― 銘か?」
ややエコーのかかった声。
艶のある低音。
それを、彼が聞き間違う訳はない。
「はい」
「今、話せるか?」
「大丈夫です」
「ほんとは、話したくないんだけどな。お前となんか」
「……」
「叔父貴にうるさく言われたんでね。筋は通せって」
「筋だなんて。もう、俺とは関係のないことですから」
「そうか。それならこっちも気が楽だ」
彼らしからぬ、沈んだ声。
その向こうから、微かな溜息が聞こえた。
一人なのだろうか?
そう思って、銘は咄嗟に耳を欹ててみたが。
意に反して。
それは、彼自身が漏らした溜息だった。
「さて。何処から話すかな?」
穏やかな口調で、本多は続ける。
如何にも、気が進まないといった調子で。
「てっとり早く、主文から伝えるべきかな?」




