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青の旋律  作者: 一宮 集
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第四十六話

「 ―― ねえ、起きて」


声と共に、容赦なくカーテンが引かれた時。

差し込む日差しに、彼は目を細めた。


「悪いけど、急いでくれる? もう駅に着いたってさっき電話があったのよ」


いつの間にシャワーを浴びたのか。

由香里は全裸のまま、バスタオルをターバンのように頭に巻きつけていた。

背中には、長い髪が幾筋か纏わりついており。

その先端から、透明な水滴が滴り落ちている。


葵はベッドから身を起こし、その背中に口付けしてみたが。

彼女は顔を顰めて、さも嫌そうに舌打ちをする。


「もう、やめてよ、そういうの!」


彼女と付き合い始めて、もう二年。

横暴な態度にも、我儘にも、いい加減慣れてはいたものの。

こういう時はやはり、溜息をつきたくなる。

諦めてベッドから降り、服を着ている間に。

彼女は手早くシーツを引き剥がす。

まるで、悪いことでもしていたかのように。


シャツのボタンを留めている最中に。

由香里は慌しく着替えを済ませ、ドレッサーに向かって化粧をし始める。

こちらを振り向きもしないで。


「忘れ物ないか、もう一度確認して」


「さっきしたよ」


「もう一度してって言ったでしょう?」


仕方なく、彼は自分の持ち物を調べる。

財布や携帯、小さな革製のディ・パックに至るまで全て。


「確認したよ。忘れたとしても、大したものじゃないから」


「判ってないわね。大したものじゃなくても、置いてかれたら困るのよ。バレたら洒落にならないでしょう?」


慣れた手付きで口紅を引きながら、彼女は答える。

葵は黙したまま、その言葉の続きを待ったけれど。

由香里はそれ以上、何も言わなかった。

だから。

ハンガーからジャケットを取り、ドアノブに手をかける。


「じゃあ、あとでまた」


「リハは五時だから。間違えないで」


「判った」


「それと、コロン変えた?」


「あ、うん」


「好きじゃないわ、それ」


「そう?」


「趣味悪いわね。前のにして」


「…判ったよ。戻しておく」


振り向きもしない背中に向かって、そう告げてから。

ドアを閉め、玄関へ向かう。

胸中は、激しく波立っていたけれど。

仕方がないと、彼は思っていた。

好きになった方が負けなのだと。





地下鉄で青山へ出てからも。

葵の気は晴れなかった。

大学構内のトイレに立ち寄った際。

ふと思いついて、ポケットの小瓶を取り出し、ごみ箱に放り込む。

一昨日、銀座で一緒に買い物をした際に。

由香里が好きだと言ったコロンで。

今日は、嫌いだと言われたものだ。


自分が言ったことも、した約束も。

由香里は悉く忘れてしまう。

それが、彼女が今抱えている病のせいだと知らなければ。

彼も恐らく、すぐに手を切っただろう。

他の男達と同じように。




通い慣れた部室へ向かう途中。

気が変わり、彼は踵を返す。

こんな気分で、まともな演奏なんか出来る筈がない。

そう思ったからだ。





「珍しいね。こんな時間に」


「すみません。ご無沙汰して」


「今日は何? 仕事?」


「あ、はい。夕方から"スペース・アルファ"で営業があるんです」


「なるほど。じゃ、軽く食っていくかい?」


「はい」


Riotは、相変わらず空いていた。

昼過ぎだというのに、ピアノの傍のテーブルにカップルが一組いるだけで。

綺麗に片付けられたカウンターは、それ以外に客が来ていないことを如実に伝えている。

それでも。

いつもと変わらないダンガリーのシャツに、黒いエプロン。

久し振りに目にした銘の笑顔に癒される。

三年前に上京し、銘と直接話せる空間を得て以来。

華々しい経歴とは裏腹に、謙虚で控え目な人柄に惹かれ。

音楽に対する姿勢や考え方に影響される一方で。

今もなお多くのファンに愛されている稀代の名ベーシストを、葵は心から尊敬し。

彼のようになりたいと、いつも願っていた。

それが、どうしてこういうことになるのか。


学生バンドに所属する傍ら、都内のあちこちで演奏活動をするようになり。

たまたまトラで引き受けた仕事で、橋元由香里と会って。

彼女に認められ、レギュラー・メンバーとして起用されたのはいいけれど。

二十も年上の人妻に、何故ここまで惹かれてしまったのか。

どうしてこんなに溺れてしまったのか。

彼自身にも、よく判らなかった。

第一。

今の彼女は、出会った頃とはまるで別人で。

突然激昂したり、泣き出したりするだけならまだしも。

クライアントとも、トラブルを起こしてばかり。

あいつはもう終わったよと陰口を叩きながら、他のメンバーが離れていってからも。

何故か、彼女を見捨てられない自分がいる。


(葵君が来てくれてから、わたし、本当に自分のやりたいことが出来るようになったのよ)


(石田幸一? 神野勇次? 冗談でしょう? 葵君以外のベースなんて、今更考えられないわ)


そんな言葉が、彼女の優しさが、どうしても忘れられなくて。

誰が何と言おうと、一番近くにいようと決めたのに。

些細なことで、心はどうしようもなく揺れてしまう。

どれほど好きでも、一生連れ添える訳じゃあるまいし。

彼女が倒れても、看病すらしてやれない。

万が一のことがあった時、死に際を看取ってやることも出来なくて。

それどころか、葬式にも出向けない。

愛人と呼ばれる立場である以上、出来ることは限られている。

だとしたら。

自分に出来ることは、一体何なのだろう。

こんな中途半端な関係で。

何か、彼女の役に立てているのだろうか…




「はい。お待たせ」


銘の声に。

彼はようやく、我に返った。

それを知ってか知らずか。

銘は、微笑みかけてくる。


「どうした? ぼーっとして」


「すみません。ちょっと、考え事を…」


慌ててフォークを取り、湯気の立つパスタに先端を潜らせると。

銘はくすくす笑った。

それから咥え煙草をし、フライパンを洗い始める。


「卒業後の進路、決まったのかい?」


「あ、いえ。それが…」


「仙台のご両親は、帰って来いって言わない?」


「言いますね。それでいつも喧嘩です」葵は、溜息をつく。「兄貴に跡を継がせるって話だったのに」


「あれ? 兄弟いるんだ」


「言いませんでしたっけ? 双子なんですよ」


「へえ。こんなイケメンが、この世に二人もいるんだ」


「やだなぁ。銘さんまで。揶揄わないで下さいよ」


「葵見てると、いっつも思うよ。天は二物も三物も与えるもんなんだなって」


「そんなことないですって。てか、人のこと言えなくないですか?」


「何言ってんだ。俺ももうじき三十になるし、もう終わりだよ。年金の心配でもするさ」


「全く。そんなことないでしょう?」


「ほんとそうだって。バンドマンなんてろくなもんじゃない。親の言う通り、医者になってれば良かったよ」


「そんな、勿体ない。銘さんがいなかったら俺、ベースなんかやってませんからね?」


「お、言ったな?」彼は、くすくす笑った。「じゃ、あとで聴かせて貰おうか」





カップルが帰ってから。

銘はステージの照明を点け、葵を手招きする。


「アンプ使うか?」


「いえ、いいです。生音で充分」


スツールに腰を下ろし、自分の楽器に触れると。

いつも以上の緊張感が襲ってくる。

憧れの人が、すぐそこにいて。

こちらに気を遣い、店の掃除をしながらも。

自分の演奏をきちんと聴いてくれると判っているから。


目を閉じたまま、全身でビートを確かめながら。

思い出すのは、昨日のこと。

久し振りの逢瀬と、彼女の漏らす吐息。

真っ暗な部屋の中で、何度となく抱き合って。

共鳴し、響き合い、溶け合っていく喜び。

それをいつまで、続けていられるのか。

年若い自分が、支えていけるのか。

そもそも。

由香里が自分を、頼りにしてくれているかどうかも判らないのに。

こんなことで、やっていけるのか ――





指慣らししてから、さらに二時間ほど弾き込んで。

ステージを降りる頃には、心地良い疲れと興奮を感じていた。

楽器をケースに戻し、カウンターに戻ると、ちゃんと珈琲が出されている。


「…どうでした?」


恐る恐るそう訊くと。

銘は、微笑みながら頷いた。


「ソロのフレーズが凄く良くなったよ。さては、勉強してるな?」


「邪道だって言われるかもしれませんが、アドリブ・コピーするようになったんです」


「ブライアン・ブロンバーグだろう?」


「あはは! やっぱバレますか?」


「そりゃあもう。あいつは化け物だ」


くすくす笑いながら、銘は煙草に火を点ける。

それから彼は、思い掛けない言葉を口にした。


「ところで…」


「はい」


「大丈夫か? 由香里ちゃん」


「えっ?」


「この前珍しく、電話来てたんだ。葵に迷惑ばっかりかけてるって。凄く落ち込んでたよ」


「……」


「去年あたりから劇的に痩せたから、気になってたけど。そういうことだったのか…」


「……」


葵が目を伏せたので。

銘は、それ以上は言わなかった。

彼女のデビュー・アルバムに、ゲストとして参加したのがきっかけで。

仕事以外でも、いろいろと連絡を取り合う仲ではあるのだが。

全幅の信頼を置く銘にさえ、由香里も葵も、お互いのことは決して口外しなかった。

去年の暮れ。

異常な腹痛を訴えて、彼女が病院へ担ぎ込まれるまでは。



「…銘さん」


「うん?」


「ステージ4って…末期ってことですよね」


そう問われて。

銘は反射的に、口をつぐんだが。

それが結果として、答えになってしまった。


「由香里さん、治療はしないって。どうせ無駄だからって。そう言い張ってるんです」


「……」


「誰が言っても駄目で。旦那さんの言うことも、医者の言うことも全然聞かないんです」


「……」


「俺も調べられるだけ調べて、諦めない方がいいって説得したんですが。もう、どうしていいのか…」


端整な顔を曇らせ、長い睫を伏せながら。

葵が漏らす様々な言葉を。

銘は、黙って聞いていた。

聞きながら、思っていた。

周囲が考えているよりずっと、葵は真面目な性格で。

それだけに、抱えている苦しみも大きかっただろうと。

けれど。

彼には、何も言えなかった。

何も言ってやれなかった。

銘自身もまた、同じような悩みを抱えていて。

同じ過ちを犯している。

だから。

心苦しさを押し殺しつつ、口を開いた。

慎重に言葉を選びながら。


「…冷たい言い方かもしれないけど。こういう場合は、本人の意志を尊重してやるしかないだろうね」


「そうでしょうか…」


「あとは、考えつく限り、出来るだけのことをしてやればいい。悔いが残らないように」


「……」


「音楽やってる以上、葵が一番近くにいる訳だから。由香里ちゃんも、何だかんだ言って頼りにしてるんだ」


訥々とした銘の言葉に触れながら。

葵は、迷いが吹っ切れていくのを感じていた。

誰に何を言われようと関係ない。

銘の言う通り。

出来るだけのことを、やっていくしかないのだ。

 

 

 

 

 

 

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