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青の旋律  作者: 一宮 集
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第四十五話

修子が振り返る前に。

彩は、軽やかに駆けてくる。

原色のドレスに、黒いコートを羽織った姿で。


「ごめんね、遅くなって。途中で電話入れようと思ったんだけど…」


そこまで言いかけて。

彩はようやく、カウンターにいる人物に気付いたようだった。


「あ、ひょっとして! 修子さんでしょう?」


多少酔っているのか。

彩は上機嫌な声を上げる。

二人の緊張を察することもなく。


半ば呆気に取られながらも。

修子は辛うじて微笑みを浮かべ、挨拶する。


「あ、はい。彩さんですか?」


「そうなの! 主人からいろいろお話は聞いてたけど。まだパリにいらっしゃるの?」


「いえ。本多さんのツアーに同行して、アメリカへ…」


主人(・・)という言葉に鋭く反応している自分に、腹立たしさを感じる一方で。

彼はつい思ってしまう。

あまりにもタイミングが悪過ぎると。


(よりによって、こんな時に…)


内心、そう思いながらも。

その苛立ちが、果たして彩に向けられたものなのか、それとも修子に向けられたものなのか。

銘には、判断のしようすらない。

彼のそんな葛藤には、まるで気付かずに。

彩はますます、明るい声で言い放つ。


「じゃあ、せっかくだから乾杯しましょう!」


「えっ?」


修子が思わず、目を見開くと。

彩はにっこり笑って、銘に向き直る。


「この前買ったシャトー・マルゴーがあるでしょう? あれ開けてくれる?」


溜息をつきたい気持ちを押し殺して。

彼は言われた通り、ワインを出す。

そんなことよりも。

彼はずっと、気になって仕方がなかった。

修子がさっき言いかけた言葉の続きが。

しかし。

彼の思いとは裏腹に。

彩はいつになくはしゃいでいる。

それを見かねてか。

修子は遠慮がちに、こう答えた。


「彩さん、せっかくですけど。わたし未成年なので、まだお酒は…」


「そうなの? じゃあ、他に何かない?」


「あ、結構です。そろそろ帰るので…」


「え、どうして?」


「今日は、結婚の報告をしに来ただけですから」


「結婚って? 本多さんと?」


「はい」


「まあ、ほんとに?」


「ええ。お陰さまで…」


「主人も言ってたのよ。前々から、お似合いのカップルだと思ってたって。おめでとう〜!」


「あ、はい。ありがとうございます」


「何かお祝いしなくっちゃ。何がいいかな?」


「いえ。皆さんそう言って下さるんですけど。お気持ちだけで…」


「そうはいかないわよ。ね、今度パリへ戻ったら、一緒にパサージュへ行きましょう!」


まるで昔からの知り合いであるかのように。

彩は修子に、そんな話をする。

これは一体どういうことなんだろう、と、銘は考えた。

ただ単に気立てが良く、親切なだけなんだろうか。

或いは、現在の恋人として、自分の立場をひけらかしたいだけなのか。

それとも…



「 ―― 銘さん?」


修子に呼ばれ、彼ははっとする。

その表情は、来た時と同じように、他人行儀なものだった。


「ごめんね。もう行かないといけないから」


「あ、そうか」


「これからもう一度、馨さんの家に顔出して。それからホテルに戻るね」


「送っていくよ」


反射的に、彼がそう言うと。

彩も笑顔で頷いた。


「そうね。もう遅いし。そうした方がいいわ」


「あ、いえ。タクシーで行くから大丈夫です」


軽やかにスツールから降りると。

彼女は財布を出し、ジュース代をカウンターの上に置く。


「値上がりしてなきゃ、丁度だと思うけど」


「いいよそんなの」


「良くない。ちゃんと払わせて」


そう言いつつ、修子は踵を返し。

さよならもおやすみも言わずに、階段を上がっていく。

銘は咄嗟にその小銭を掴み、彩をその場に残してあとを追う。

修子がそれを受け取らないと知っていながら。



路上には、冷たい雨が舞っていた。

手際良くタクシーを止めると、修子はさっさと後部座席に乗る。


「青物横丁までお願いします」


「はい」


重い音と共に、ドアが閉められたその瞬間。

銘は運転席側の窓を叩き、話しかける。


「すみません。ちょっと待ってくれますか?」


「はい?」


「すぐ済みますから」


「あ、はぁ…」


若い運転手が、ギアをパーキングに入れるのを確認してから。

彼はそっとドアを開ける。

振り仰いだ彼女の顔は、微かに青ざめて。

大きな瞳は、真っ直ぐに彼を見返してくる。

そこで彼は確信した。

何か重大なことを、彼女が隠しているのだと。


しばらく躊躇ってから。

修子はやっとの思いで口を開いた。


「…どうしたの?」


「さっきの話だけど。続きをまだ聞いてなかったから」


「え?」


「何か大事な話があるって言ってただろう?」


「もう言ったでしょう?」


「結婚の話じゃなくて。他にも何か、話したいことが…」


「いいの、もう!」


遮るように発せられた、彼女の言葉に。

思い掛けないその剣幕に。

銘ははっとして、口を閉ざす。


「判ったから。銘さんが今どういう立場にあるのか。嫌って言うほど」


「……」


「もう決めたから。こっちのことは気にしないで」


「……」


「彩さん、悪い人じゃなさそうだし。会えて良かった」


「そんな話してるんじゃない。なあ修、向こうに帰る前に、もう一度…」


「ごめんね銘さん。もう一度はないの」


「……」


「あたしこれで、最後にするつもりだったから。銘さんと会うの」


「そんな…」


「最後だから、ちゃんと受け取って。今までも銘さん、あたしからは絶対にお金取らなかったから。ね?」


銘が言葉を失うと。

修子はようやく微笑んで、彼の手を離させる。

それから。

怪訝な顔をしている運転手に、優しく促した。


「すみません。出して下さい」


その言葉と共に。

ドアは、堅く閉ざされてしまった。

降りしきる雨の中に佇んで。

走り去るタクシーのテール・ランプを見詰めながら。

彼はようやく悟った。

自分が、取り返しのつかないことをしてしまったことを。

それによって、何もかも失ってしまったことを。

 

 

 

 

 

 

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