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青の旋律  作者: 一宮 集
44/55

第四十四話

カウンターに向かって、左から二番目。

そこが、修子のお気に入りの席だ。

以前のようにそこに腰を下ろすと、彼女は疲れた様子でハンドバッグを肩から外した。

そのバッグに見覚えはない。

本多に買って貰ったものか、自分で買ったものなのだろう。

銘は無意識に、そう推測していた。


沈黙に耐えかねて、彼はCDをかける。

パット・マルティーノの"Live at Yoshi's"。

ベースレスのトリオだが、彼は気に入っていた。


「…オルガンは、ジョーイ・デフランシスコ?」


「そう」さすがに目を合わせられないまま、彼は背を向ける。「何か飲む?」


「珈琲を」


湯が沸くまでの時間が、永遠のように感じられる。

いたたまれない気持ちのまま、彼は修子の言葉を待った。

でも、彼女は何も言わない。

胸ポケットを探って煙草を一本取り出し、火を点ける。

修子は頬杖をつきながら、ステージを見詰めていた。

以前より幾分大人びた横顔。

彼女の態度は、札幌で会った頃とはまるで別人のようだった。

それも仕方がない、と、銘は自分に言い聞かせる。

全て自分に責任があるのだと。


「…銘さん」


「うん?」


「ごめんなさい。やっぱり、オレンジ・ジュースにしてもいい?」


「ああ、いいよ」


火を止め、グラスに氷を入れた時。

彼は言いようのない不安を感じた。

修子の前にそれを置くと、彼女は黙ってグラスに触れる。

それから、意を決したように口を開く。


「大事な話があるの」


「だと思った」彼は頷いた。「隣に座っても構わない?」


「どうぞ」


煙草を消したのち、やや距離を開けてスツールに座る。

彼女は俯いて、慎重に言葉を選んでいるようだった。


「…何から話していいのか判らないけど」


「うん」


「大学…やっぱり、通うの無理みたいで」


「そうか」


「ごめんなさい。せっかく入れて貰ったのに」


「仕方ないよ」


「それと…」


「うん」


「今、本多さんと一緒にいるの」


「知ってる」彼は極力、自分の言葉が冷たく聞こえないように務めた。「全米ツアーの真っ最中だろう?」


「そう…」


そこまで話すと、修子は再び黙ってしまう。

その間、銘は思いつく限りの可能性を考えた。

いい可能性と、悪い可能性の殆どを。


4曲目の"Welcome To A Prayer"が始まったあたりで。

修子はようやく、言葉を続けた。


「…それで」


「うん」


「わたし、多分…」


「うん」


「―― 結婚、すると思う。本多さんと」


今度は、銘が沈黙する番だった。

予想はしていたものの、実際に修子の口からその言葉を耳にした時。

彼はやはり、ショックを隠しきれなかった。

これでついに、彼女を失うのだ。

もう取り戻すチャンスはないのだ。

そう思った途端、これまでの記憶がありありと蘇る。

残酷なまでに鮮烈な記憶が。



ようやく、心の整理がついたあたりで。

彼は頷き、微笑むことが出来た。


「そうか」


「……」


「大事にして貰ってるんだね」


「うん。勿体ないくらい…」


修子のそんな言葉を聞きながら。

安心したとも、おめでとうとも言いたくない自分がいる。

これは一体どういうことだろうと、彼は考えるけれど。

答えなど、出る筈もない。


「…修」


「うん?」


「何か俺に、出来ることはある?」


「え?」


「その…お祝いとか」


「あ、ううん。何も要らない」


「……」


「今、一番忙しい時期だから。式挙げるとしても、パリへ戻ってからになるし…」


「なるほど」


「先に、馨さんのところへ報告に行ったの」


「びっくりしてただろう?」


「ううん。予想通りだって。わたしが行く前に、本多さんから電話来てたみたいだから」


「そうか」


「馨さんもお祝いしたいって言ってくれたんだけど。丁重にお断りしたから」


「……」


「だから、銘さんも気を遣わないで」


「……」


二本目の煙草を取り出しかけて、彼は何故か吸う気になれず。

溜息と共に、それをカウンターの上に置く。


(何やってんだ、俺は…まるでガキだな)


そう自嘲しながらも。

彼はどうしても、二人のことを素直に祝う気分にはなれなかった。

そしてこの時初めて、修子に未練を残していることに気付いていた。

だから、喜んで送り出してやる気になれないのだと。

その胸中を察したかのように、彼女は訊いてくる。


「ねえ…」


「うん」


「喜んでくれないの?」


しばらく迷ってから、彼は答える。

それが真実かどうか、何度も確認しながら。


「半分はね。ほっとしてる部分もある。本多さんはああ見えて、潔い人だから」


「……」


「ようやく身を固める気になったんだな、とか」


「……」


「修の憧れの人で。離れてからもずっと、好きだった人なんだから」


「……」


「修にとっても、夢だった筈だし。それはほんと、良かったと思ってる」


「うん…」


「ただ…」彼はその煙草を咥え、火を点ける。「半分は…素直に喜べない」


「…どうして?」


「俺のせいで、こんなことになったから」


「……」


「結果オーライって見方もあるだろうけど。やっぱり遺恨はあるよ」


「……」


「俺から言い出したのにね。勝手な言い草に聞こえても仕方ないって思ってる」


「ううん。そんなことない」


「でも…別れてまだ、半年も経ってないのに…」


その言葉に、修子は俯いてしまう。

やはり、打ち明けるべきなのだろうか。

彼にまだ、気持ちがあるうちに。

そう思いながらも、なかなか決心はつかない。


ふと視線を外した時。

視界の端に、見覚えのない大きな絵が映った。

刹那。

甦ったのは、以前パリで出会った槙村の言葉。


(彼は元気でいますよ。どういう訳か、僕の家内の絵をやけに気に入ってくれたみたいでね)


絶望と共に、彼女は目を閉じる。

例え打ち明けたとしても、彼が戻ってくる確証はない。

そう直感したからだ。



「―― 修?」


銘の声に、彼女ははっとして目を開けた。


「どうした? 顔色が悪いな」


覗きこむような彼の視線に、修子は無意識に反応してしまう。

今しか、言うチャンスはないと。


「…銘さん」


「うん?」


「わたし…わたしね…」



その時。

突然、背後のドアが開く。

聞こえてきたのは、無邪気な彩の声。


「―― ごめんなさい。すっかり遅くなっちゃった!」

 

 

 

 

 

 

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