第四十三話
「…明」
「うん?」
「ごめんな」
「何が?」
「広告、出したつもりだったのに」
「あ、いいよ。よくあることだって」
カウンターでビールを受け取りながら。
明は、笑顔で答えるけれど。
銘の気はどうしても晴れそうになかった。
毎週、音楽雑誌にスケジュールを送っているのに。
先月から、何故かそれが掲載されなくなった。
編集部に問い合わせても、手違いでしたと謝られるだけで。
ライブの客は減る一方だった。
今夜もギグにも、来たのは二十人ほど。
常連客と、葵の取り巻きのみ。
チャージ・バックも、大した額にはならないだろう。
それなのに。
明も他のメンバーも、何一つ文句は言わず。
俺達も営業しないとなぁと笑うばかり。
そのことに。
銘は酷く、心を痛めていた。
スケジュールのことも、一連の嫌がらせのことも。
彼には、心当たりがあったからだ。
彩と交際を始めて、三ヶ月が過ぎた今。
彼は次第に後悔し始めていた。
彼女からのメールも電話も、日を追うごとに少なくなり。
ここ一週間は、顔すら見ていない。
槙村英が帰国しているからだ。
そのことだけでも、彼の胸中は波立っているのに。
彩は、無邪気なことばかり言ってくる。
今夜は、槙村と一緒にレセプションに出席するとか。
フランス大使の家で会食する予定だとか。
当たり障りのない返事をしながらも。
彼は時に苛立ち、時に酷く傷付けられていた。
彩の住む世界と、自分のいる場所のギャップを思い知らされるたびに。
彼女を自分のものにすることが、単なる夢物語に過ぎないと思い知らされて。
あの槙村英に向かって、彩と別れてくれと言ったことさえ、まるで嘘のように思えてくる。
それなのに。
打ち上げの賑やかな雰囲気の中で。
彼はつい、携帯を気にしてしまう。
一人孤独に、彼女からの連絡を待っている間。
会いたい気持ちと、振り回されるのは沢山だという思いが激しく交錯する。
そんな葛藤の心地悪さに、彼の手はひっきりなしに煙草を求め。
明の呼びかけにも気付かないほどだった。
「…銘さん!」
はっとして、顔を上げると。
明は呆れ果てた様子で、溜息をつく。
「音楽。さっきからずっと止まってるんだけど?」
「あ、そうか。すまない」
「それと、ビールのお代わり」
「了解」
「全く、何やってんだか…」
ぼやきながらも。
こういう時の明は、酷く優しい。
とは言え。
この店で始めたライブで、一人の客もいないステージは初めてで。
途中からぽつりぽつりと人が現れて、銘は大いにほっとしたのだが。
それはやはり、自分のせいとしか思えなかった。
「しっかし、世の中不景気だよなぁ。こんないいバンドを誰も聴きに来ないなんて」
と、圭介が溜息をつく。
葵は、くすくす笑った。
「まあ、そんな腐らないで下さい。たまたまですよ」
「お前はいいよな。例によって美女が押しかけて。俺なんかファンもつきやがらねぇ」
「そんなことないですって。サークルの連中ばっかりですし」
「それでも、来るだけいいさ。俺も一度でいいから、きゃあきゃあ騒がれてみてぇよ」
「あのねー」と、明がクールに混ぜっ返す。「あんまりそういうこと言ったら、巧くんに言いつけるからね」
「いいよ別に。惚れてんのはあいつの方だから」
「お、言ったな?」と、徹が笑う。「どうした。珍しくお惚気全開じゃねぇか」
「まあまあ、そう突っ込まないで。そんなことより、何とかなんねーの、これ?」
「何処も同じみたいだよ」と、明は声を低めて言う。「身内しか来ないか、或いはゼロか」
「てか、ジャズ自体がもう低迷期だからなぁ」
「そうですね。ブルーノート以外、70年代以降を聴く人ってあんまりいないですし」と、葵。
「ましてや、日本のミュージシャンなんて、二束三文扱いだしな」
そんな愚痴を聞きながら、明はくすくす笑う。
「何で笑ってるんだよ?」
「いや、面白いなと思って」
「何が?」
「"柱の陰に熱心な聴衆がいる"って話、知ってる?」
「ああ」と、圭介が頷く。「エリック・ドルフィーか」
「何だそれ?」
と、徹が首を傾げると。
葵がすぐさま説明する。
「客が入らないってメンバーがぼやいてた時、ドルフィーはそう言って、平然と演奏してみせたそうですよ」
「そう。彼にだってそんな時代はあったんだ。僕等なら尚更そうじゃないの」
明の言葉に。
三人は、顔を見合わせる。
日本へ帰ってきてからというもの。
明は時々、こんな楽観を見せるようになった。
それは、彼女のリーダーとしての資質が開花した証拠でもあり。
揺るぎない自信の表れでもあった。
ささやかな打ち上げのあと、一人になってから。
銘は、ステージのスポットを付けてみる。
久し振りに手にするウッド・ベースは、やけに重かったが。
指板に触れた途端、そんなことは気にならなくなっていた。
柱の陰にいる観客をイメージして演奏すること。
そんな時代を経験したことのない自分が、どれほど恵まれていたのか。
彼は今更ながら気付かされた。
ニューヨークでの修行を経て、本多と共に最前線にいた頃は。
現地のコーディネーターが、チケットを捌くのは最早常識で。
地方の小さなクラブであろうと、都内の大きなホールであろうと。
客の入りを気にしたことなど一度もなかった。
楽器と体一つで現地へ飛び、ただただ演奏に明け暮れる毎日の中で。
自分は次第に慢心していったのかもしれないなと、銘は思った。
誰もいない、しんとしたステージの上で。
思いつくままに、即興演奏を繰り広げながら。
彼は、これまでの数年間を思い出していた。
病に倒れ、プロとしての活動を諦めてから。
本多の紹介で、この店を手伝うようになり。
やがて馨から、全てを任されるようになった。
明や修子、そして彩。
ここで出会った人間は、数え切れないけれど。
その殆どを、いつか俺は失うのかもしれない ――
そんな思いを刻んでいる最中。
彼は、扉のベルが鳴る音を耳にした。
「彩さん?」
そう呼びかけて、顔を上げると。
彼の目に飛び込んできたのは、思い掛けない人物の姿。
胸の下まで伸びた髪と、以前よりほっそりとした体。
いつものジーンズに、スタンド・カラーの白いシャツ。
彼は信じられずに、目を見開いたまま。
ベースを椅子に寄りかからせて、ステージを降りる。
「…お久し振りです」
軽く会釈をしたあと。
修子は、真正面から彼を見据え。
それから、再び口を開く。
酷く、他人行儀な声で。
「少しだけ、話しても構わない?」