第四十二話
平日だというのに。
成田空港は、多くの人で溢れ返っていた。
大きなカートを押す家族連れや、年配の団体旅行客。
その中に佇む、一人の青年。
肩にかかる明るい色の髪、シルバーのピアス。
タイトフィットなTシャツに、黒レザーのブルゾン。
不躾な視線を撥ね退けるように腕組みをして。
搭乗手続きを済ませる巧の姿を、サングラス越しに見守りながら。
圭介は一人、浮かない顔をしている。
高校を卒業したあと。
アメリカへ留学することを選んだのは、巧自身だった。
その段階で圭介は、彼に捨てられたような気がしたものだが。
二年がかりで築き上げた絆は伊達ではないようで。
遠く離れていても、交際は順調に続いている。
高校二年の春。
ひょんなことから、巧と知り合って以来。
圭介は、この厄介な後輩の面倒を見ることが多くなったのだが。
気付くと、お互いを必要とするような関係になっていた。
母親の死によって、巧が天涯孤独となった時。
圭介は無理を承知で父親に頼み込み、彼を養子として家に迎えて貰い。
それ以来、都内のマンションで二人暮らしをすることになったのだ。
(女に不自由したことのない俺が、まさか、男と付き合うことになるなんてな)
元々異性愛者である彼には、その事実が時折信じられなくなるくらいなのだが。
これまで付き合った女とは比べものにならないくらい、巧はひたむきな愛情を捧げてくれ。
そのために、これまでに経験したことのないような、濃密な関係を築いてきた。
家族に言えない秘密を持っていることを、後ろめたく思っていた時期もあったが。
今はすっかり吹っ切れて、迷いはなかった。
プロ・デビューと同時にカムアウトして、巧とは公認の仲でもあり。
音楽業界ではよくあることなので、仕事を続ける上での支障もない。
(…ま、今となっては、結果オーライってことか)
ようやく、手続きを終えたのか。
巧は彼に向かって、にこやかに手を振りながら。
銀色のバーを押し退け、真っ直ぐに駆け寄ってくる。
「ごめん! 思ったより時間かかっちゃって」
「いいよ。慣れてっから。お前のトロさには」
「もう、酷いなぁ!」
「俺の口の悪さにも、いい加減慣れただろう?」
「うん。でないと、やっていけないもん」
くすくす笑いながら、巧は答える。
男にしては線の細い体、愛らしい顔立ち。
ブルーのTシャツに、リーバイスのジーンズ。
何度となく抱き締めた恋人を、彼は目を細めて見返した。
「悪いな。最後まで見送れなくて」
「あ、ううん。いいよ。仕事なんでしょう?」
「まあな。今日は早目に入んなきゃならないんで」
「今度会えるのは、クリスマスかな」
「一番忙しい時期じゃねーの」
「頑張って帰って来るから。待っててね」
「俺のことはいいから、学業に集中しろよ」
「判ってるって。圭介もね」
「言うなって。痛えんだから、その話題」
「あはは、ごめんごめん!」
「じゃ、そろそろ行くからな。気を付けて行けよ」
「うん。圭介も」
「たまには電話ぐらいしろよ」
「メールしてるじゃん、毎日」
「何か話した気がしねーんだよ、ああいうのって」
「判った。電話する」
「じゃな」
「うん。またね」
無造作にポケットに手を突っ込むと。
彼は、踵を返して歩き出す。
エレベーター・ホールへ向かう角を曲がるまで。
巧はずっと、自分の背中を見送っているだろう。
いつものように。
だから。
その直前で、一度手を振ってみる。
振り返りはせずに。
駐車場から車を出し、首都高に乗ったあと。
彼は煙草を咥え、空を見上げる。
一面の曇天からは、細かな雨が降り始め。
ますます、気が重くなる。
カーステレオから流れてくるのは、EXILE。
巧のCDだ。
「あの野郎。結局忘れていきやがって ―― 」
そう呟いた途端。
不意に、視界が歪んだ。
思いの他空いている車線を、縫うように飛ばしながら。
空を仰ぎつつ、込み上げる感傷を振り解こうとするのだが。
この三年間、それが上手くいった試しはない。
「全く」ステアリングを握りながら、彼は溜息をつく。「俺が事故って死んだら、お前のせいだからな!」
そう、毒づきながら。
彼は観念して、サングラスを外す。
溢れる涙を拭うために。
巧がアメリカに帰るたび、見送りに来たとしても。
別れ際のキスはいつも、エレベーターの中。
周囲の目を恐れるあまり、友達以上の距離にはなれず。
手を繋ぐどころか、抱擁すら出来ない。
そんな関係に、苦しさを覚えないと言ったら嘘になるけれど。
恋人はそれを知ってか知らずか、笑顔で手を振ってくれる。
巧の手前、突っ張ってはいたが。
本当は、彼と離れたくはなくて。
彼を離したくもないのだ。
でも。
そんなことを、今更言える訳もない。
涙を拭い、サングラスを掛け直すと。
気を取り直して、アクセルを踏み込んだ。
今日は久々のギグ。
場所は、Riot。
銘の店だ。
「よお」
「あ、おはようございます!」
先にセッティングを済ませた葵が、笑顔を向けてくる。
アシンメトリーな前髪から覗く、黒目がちな瞳。
183cmの長身に、やや甘くハスキーな声。
がっしりとした体格に、すらりと長い指。
この美貌の青年に会うたびに、彼はつい思い出してしまうのだ。
葵が橋元由香里の愛人であるという、明の言葉を。
(…でも、まあ。これだけ男前なら、モテて当然だよな)
そんな言葉を押し殺しながら、テナーを用意していると。
寡黙なベーシストは、珍しく話しかけてくる。
「明さん、遅いですね」
「ああ、ちょっと遅れるらしいな。スタジオから真っ直ぐ来るらしいから」
「相変わらず、忙しいみたいで」
「そりゃそうだ。俺達と違って、あいつは売れっ子だから」
「圭介さん、売れっ子じゃないですか」
「そんなことねーって。俺なんかまだまだ…」
笑いかけて、ふと顔を上げた時。
葵の、いつになく真剣な眼差しに気付いた。
圭介は手を止め、あらためて彼を見返したが。
その表情には、微かな躊躇いの色がある。
「…圭介さん」
「うん?」
「ご存知なんでしょう?」
「何が」
「俺の、噂のこと…」
その言葉に。
圭介は、反射的に溜息をつく。
それから立ち上がって、楽器をホルダーに置き。
胸ポケットの煙草を取り出して火を点ける。
「噂って…橋元さんとのことか?」
率直にそう言うと。
頷きはしないものの、葵は、すっと目を伏せてしまう。
それで圭介は、噂が噂ではないことを悟ったのだが。
勿論、口には出さない。
「とりあえずはな。でも、お前が話さなければ、それはあくまで噂だし」
「……」
「はっきりいってそういうの、興味ねぇから。銘さんのこともそうだけど」
「……」
「子供じゃねぇんだし。寝る相手ぐらい、本人が見極めればいいだけの話だろう?」
「…ええ」
「なら、別に問題はねーじゃん」
「……」
「ま、気にすんなって。俺も明も、そういうの関心ねぇから」
「はい。ありがとうございます」
「それに。知ってると思うけど…」
「はい」
「俺も、人とは違う道を選んじまったからさ」
「……」
「誰かの生き方に文句言える筋合いじゃないし。その代わり、自分の生き方にも文句を付けられたかないんだよ」
「あ、はい。判ります、それ…」
「つまり、そういうこと」
話を切り上げようと思ったところへ。
ようやく、銘が帰って来た。
その後ろには明と、ドラムスの徹の姿。
「ごめんごめん! 思ったより長引いてさ!」
「何やってんだよ、ったく!」
「わりーわりー! 今すぐセッティングすっから!」
和気藹々と話す、ステージの上から。
圭介はふと、カウンターに視線を向けてみた。
ここ数日。
銘の笑顔を、彼は一度も見たことがなく。
目にするのは、冗談も言わず、やけに思い詰めた顔をして。
ただ黙々と仕事をこなしている姿。
銘の変貌振りに気付いて以来。
圭介は、言いようのない不安を感じていた。
近いうちに、彼に何か悪いことが起こるのではないか。
そんな、根拠のない不安を。