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青の旋律  作者: 一宮 集
41/55

第四十一話

「ありがとう。ここでいいわ」


ひとしきり、キスを交わしたあと。

にこやかに微笑みながら、彩は車から降りていく。

オートクチュールのドレスに身を包み、美しい髪を靡かせながら。

彼女のほっそりとした体と微笑みが、著名人の群れの中に紛れて消えるのを。

彼は、複雑な気分で見送っていた。

報道陣のカメラの放列、次々に差し出されるマイク。

着飾った女優やタレントが、これでもかとフラッシュを浴びせられている。

その光景はまるで、別世界の出来事のように思えた。


スノッブな空騒ぎを横目に見ながら。

彼はつい、溜息をつく。

彩をこういう場所へ送ってきたのは、初めてではないけれど。

これではまるで…


刹那。

背後で炸裂する、凄まじいクラクション。

それと、ほぼ同時に浴びせられた罵声。

驚いて振り返ると、そこには真っ赤なフェラーリがいて。

執拗にパッシングを繰り返す。


「くそっ」


反射的に舌打ちしつつ、銘はギアを入れる。

苛立ちと共に急発進させると、ホテルの中へ向かう人々が、一斉にこちらを振り返るのが見えた。

ミラー越しに確認すると、フェラーリの後ろには、ベンツやリムジンがずらりと並んでいる。

レセプションに出席する連中の車だ。


「…どうせ俺なんか、場違いだって言いたいんだろう?」


自嘲めいた言葉を発してのち。

胸ポケットから煙草を取り出して、火を点けてみる。

少し落ち着けと、そう言い聞かせながら。

外は雨。

そのせいでますます、憂鬱に拍車がかかる。





彩のことを知るにつれ。

彼は、自分と彼女との距離をより一層思い知らされることになった。

幅広い交友関係と、世界規模のコネクション。

毎週のように行われる華やかなパーティー、ひっきりなしに鳴る携帯。

最初のうちこそ、再会の喜びに満たされていた彼だったが。

彩にそんな輝きを与えているのは、槙村英なのだと。

彼女の夫に他ならないのだと。

覆せないその事実を前にして、ますます自信がなくなってくる。


(俺にはやはり、過ぎた人なのかもしれないな)


溜息と共に、紫煙を吐き出して。

ゆっくりと車を走らせながら、眩い高層ビル群を見上げてみる。

不夜城のような六本木ヒルズ。

グランドハイアット東京や森タワー。

生まれ育った街なのに。

この日はまるで、知らない場所のように思えた。





駐車場から、店へ向かって歩いている間も。

銘の気分は晴れなかった。

帰国してから、細々と営業の仕事をしていた頃、よくこんなことがあったなと。

歩道の上の水溜まりを避けながら、彼は思った。

見たこともないような豪邸、そこに集うハイソな人々。

彼等の要求に応え、耳触りのいいBGMを奏でながら。

こんなことをして、一体何になるのだろうと。

音楽や、それを奏でるミュージシャンに対する、日本とアメリカの考え方の違いに。

彼は次第に、疲れを覚え始めていた。

一流だろうが、三流だろうが、彼等にとってバンドマンはバンドマン。

一見ちやほやしておきながらも、その笑顔の影には、明らかな侮蔑が見え隠れする。

だから。

彩と自分との関係も恐らく、よくあるアバンチュールとしか見られずに。

退屈な結婚生活のスパイス程度にしか思われていない筈だ。

どれほど自分が献身的な愛を注いだところで、彩はそれでは満足しないのだろうと。

槙村が言った通り。

それぐらいのことは、彼にも容易に察しがついた。

刺激が欲しいの、と、彩は口癖のように言い。

それが冗談ではないことも薄々理解していた。

今の彩は、類稀な才能を持った孤独な少女ではなく。

夫と多くのパトロンに囲われた、艶やかな蝶なのだと。



そんな現実を知るに従って。

銘は少しずつ冷静さを取り戻しつつあり。

子供じみた独占欲や年甲斐もない情熱を、恥じる気持ちさえ生まれつつあった。

けれど。

実際に彩に会い、彼女の微笑みに捕らえられると。

戸惑いも後ろめたさも、瞬時に消し飛んでしまう。

そんな自分の弱さを。

彼はやはり、認めたくなかった。





ジーンズのポケットに両手を突っ込んで。

降りしきる霧雨に打たれながら、店の前まで来た時。

彼はそこに立つ人影に気付いた。


「…何処行ってたの?」


明が問う。

煉瓦の壁に、背中を押し付けたまま。

純白のシルクシャツ、不揃いに伸びた長い髪、

ヴィンテージのジーンズに、リーガルの靴。

相変わらず、マニッシュな格好だ。


その問いかけに答える気にもなれず。

銘は黙したまま、鍵を放る。

右手で受け取ると、明は慣れた様子でシャッターを開け。

彼より先に、階段を下りていく。

その背中に向かって。

彼は、話しかけてみた。


「…明」


「うん?」


「ライブか何か?」


「うん」


「何処で?」


「"Stage Four"」


「西村さんの店か」


「そう」


「客の入りは?」


「いつも通りだよ。いや、葵目当ての若い女が多かったな」


「へえ」


「西村さん、ブログ始めたんだって」


「なるほどね」


「銘さんもやればいいのに」


「冗談。俺はそういうの向いてない」


「そうなんだよね。意外とマメじゃないからな」


銘が店の灯りを点け、アンプのスイッチを入れている間。

明は自らビールを注ぎ、いつものスツールへ腰を下ろす。


「そうだ。これ、かけてよ」


そう言いながら、明は、一枚のCD-Rを彼に渡した。

マルチプレイヤーのトレーに、それを押し込めたあと。

彼もまたグラスを取り、サーバーからビールを注ぐ。

明は特に文句は言わない。

そういうところは、以前から察しがいいのだ。


録音レベルが低いせいか、音がよく聴き取れない。

銘は右手を伸ばし、メインのボリュームを調節する。

JBLから流れてきたのは、硬質なピアノの音。

しかし、そのスタイルは明らかに彼女のものではない。


「…誰?」


「聴いてれば判るよ」


意味ありげに言うと、明はステージをちらっと見た。

そこに、誰かがいると言わんばかりに。

銘も釣られてその視線を追ってはみたものの。

真っ暗な空間には、何も見えてはこなかった。



メロディアスなピアノが、ふわりと宙に消えてから。

しばし、沈黙が訪れた。

そのあと。

突然鳴り響いた、ハードなドラム・ソロ。

特徴あるタイトなフレージングを、銘が聴き逃す訳はない。


「アランか? じゃあ、これは…」


彼は、はっとして明を見たが。

彼女はにこりともせず、頷いた。

圧倒的な音の奔流、炸裂するパワー。

その中を、縦横無尽に駆け巡るピアニストの指先。

凄まじい迫力と息をつかせぬ緊張感に、彼は言葉を失って。

無人のステージに、思わず本多の姿を探してしまう。

さっきの明のように。

悔しいけれど。

こんなピアノを弾ける人間は、世界に一人しかいない。


殴りつけられたようなショックを感じながら。

銘はあらためて、本多の実力を目の当たりにした。

彼が知る、リリカルなスタイルはすでにはなく。

ホーン・ライクにブロウする、重厚な旋律と。

確固たる意思と自信に満ち溢れた姿さえ感じる。

かつて銘が目指した世界に、本多は堂々と君臨し。

賞賛と名声を欲しいままにしている。

しかし。

それは決して、一朝一夕に作られたものではなく。

本多自身の努力と犠牲の賜物であることを、銘は知っている。

研ぎ澄まされた感性の向こうに覗く、溢れんばかりの情熱と。

その実計算され尽くした彼の音楽に。

心は乱れ、そして熱くなる。


―― こんな演奏がしてみたい。

一度でいいから。


気付くと。

彼は無意識に、そんなことを祈っていた。

とっくに諦めた筈の夢。

けれどそれは、夢ではなく。

あと少し、手を伸ばせば掴める筈のもの。

では、みすみす手放したのはどうしてか?

保身と、卑屈と、諦めの中で。

自分への言い訳に明け暮れた数年を、彼は思い出す。

俺は、音楽家ではなかったのか?

こんな現状に甘んじていていいのか?


音に込められた本多の思いは、彼の思いと共鳴し。

溶け合って、反発し、また、激しく融合していく。

帰って来いと。

恐れることはないと。

でも。

俺には度胸がない。

あの人と渡り合えるような度胸が――





二十一分間の熱演を聴き終えたあと。

彼の頭の中は、真っ白になっていた。

それを見透かしたかのように。

明は、席を立つ。


「…どうだった?」


その問いにも。

彼は、上手く答えられない。

それほど、本多の演奏は素晴らしいものだった。


「来月出る新譜だよ。最初の一曲だけ貰ってきた。銘さんのために」


やや、相好を崩しながら。

明はCDをケースに戻し、カウンターに小銭を置く。


「あと…もう一つニュースがあるんだ」


「何?」


「聞いてない? 馨さんから」


「いや、何のことだろう?」


「修子さん。帰って来るって」


「…えっ?」


「多分、何か事情があってのことじゃないかな」


「事情って?」


「さあ。そこまでは…」


肩を竦めながら、彼女はドアを押す。

それから、思い出したように付け加える。


「よく判らないけど。何だか、あんまりいい話じゃないみたいだ。ニュアンスとしてはね」


そんな言葉を残すと。

明は静かにドアを閉めた。

振り返りもせずに。

その態度と、修子の突然の帰国の報せに。 

彼は、引っ掛かるものを感じていた。

抗えきれない何かが、知らない場所で動き出しているような気配を。

 

 

 

 

 

 

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