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青の旋律  作者: 一宮 集
40/55

第四十話

気付くと。

漆黒の闇の中に、彼はいた。

ぬめぬめとした手触りの割に、重い感触はない。

まるで水の中にでもいるようだ。

不意に息苦しさを感じ、手を伸ばすものの。

その先には、何も触れそうにない。


視覚を奪われるということは、これほど恐怖を感じるものなのか。

銘は半ば戦慄しながらも、何とか体を動かしてみる。

足元のおぼつかないまま立ち上がってみて初めて、自分が座っていたことが判った。


壁を探り、スイッチを求めながら、彼は考える。

これはきっと、夢なのだろうと。

でなければ。

これほどの闇が、この街にある筈はない。

地下にある彼の部屋でさえ、テレビやPCのパイロット・ランプが点いているというのに。


伸ばした指先が、ようやく何かを捉えたところで。

彼は思わず溜息をつく。

それは、硝子の表面のように滑らかだったから。

削り取るように、爪を立ててみる。

何かが、ぼろぼろと崩れ出す音がして。

微かな明かりが、そこから漏れてきた。


(良かった。これで助かるぞ)


根拠もなく、そんなことを思いつつ。

彼は、なおも作業を続けた。

脆い硝子は、やや熱を帯びながら。

彼の指に合わせ、どんどん剥がれ落ちていく。

眩しさに目が慣れてきたあたりで、ふと目をやると。

その手は、青黒く変色していた。

丁度、死人の手のように。


はっとして、差し込む光に手を(かざ)すと。

その向こうに佇む、女性の姿が見えた。

肩まである黒髪は、逆光の中で金色の光彩を放っていたが。

そんな位置で、顔など見える筈もない。

しかし。

銘にはすぐに、それが誰なのかが判った。

以前見た奇妙な夢。

深い森の中の、白服の女性だと。






「―― 修!」


叫んだところで。

銘は、現実の声を聞く。

そしてようやく、そこが自分の部屋であり、自分のベッドの上であることに気付いたのだが。

激しい動悸は治まりそうにない。


「…どうしたの?」


(いぶか)しげな彩の声。

しまった。

そう、彼は思ったが。

彼女は微笑んで、口付けを求めてくる。

まるで、何も聞かなかったと言わんばかりに。

その唇が離れるのを待ってから。

彼はやっと、言葉を発する気になった。


「…いや。何でもないよ」


答えている間にも。

弱りかけた心臓が、彼の気を遠くする。

ぐったりと体を横たえたまま、犬のように息をして。

何とか、発作を抑えなければならない。


「また、夢?」


「そう。今度は黒だ。漆黒の闇と光…」


「レンブラントね。わたし、彼の絵も大好きよ」


くすくす笑いながら、彼女はベッドから起き上がる。

奥にある、シャワー・ルームへ向かうために。

そのほっそりとした背中を見送りながら。

ひとしきり、額の汗を拭った。

あれ以来、何かが狂い始めている。

そんな予感を抱いたまま。






照りつける陽光と、西海岸特有の爽やかな空気の中で。

修子の思いは深く沈んでいた。

果たしてそれは、上手くいくのだろうか。

けれど。

それが、どちらの子供であったとしても。

本多には、言わなければならない。

慌ただしいツアーの中で、余計な心配をかけたくはなかったし。

神経質な彼の、足手(まと)いになりたくなかった。



サンタモニカ・ビーチのスタジオで、簡単なレコーディングを済ませたあと。

窓外に海を臨むカフェで、昼食を取っている最中。

彼女はナプキンに走り書きして、そっと本多に渡す。


"二人きりで、話したいことがあるんです。"


サングラス越しに、そのメモに目を通したあと。

彼は、微かに頷いた。




マネージャーやスタッフを別の席に移動させると。

白いマグカップを前にして。

本多は、優しく話を促してくる。


「…どうしたの」


「……」


「来る前から、体調が悪いみたいだけど。ひょっとしてそのことかい?」


「…本多さん」


「うん?」


「わたし…本当は、嫌なんです。大事なツアーの最中に、こんな話…」


修子が俯くと。

彼は怪訝な顔をして、サングラスを外す。

その様子が、只事ではないと悟ったからだ。


「…よく判らないけど。深刻な話みたいだね」


「……」


「構わないよ。どんなことでもいいから。話してご覧」


「…でも」


「うん」


「本当は、話さない方がいいのかもって…」


「あのね」彼は、微笑みながら言う。「君が思ってる以上に、俺はタフだし。いろいろな経験もしてきてるし」


「……」


「伊達に修羅場潜ってきた訳じゃないし、年食ってる訳じゃない。だから…信用してくれないか」


「……」


「例えば、そうだな。俺のことが、嫌いになったとか?」


「いえ…」


「じゃあ、他に好きな人が出来た?」


「いえ」


「やっぱり、大学に戻りたいとか?」


修子は、黙って首を横に振る。

その顔色は、すっかり失せていた。


「ふうん」彼は、首を捻った。「だとすると、俺には見当もつかないな。他に何か、君を困らせてることが…」


「困らせてるだなんて。むしろ、わたしです。本多さんを、困らせることになるのは…」


「それって…どういうことだい?」


「…あの」


「うん」


彼と、目を合わせた瞬間。

これまでに経験したことのない緊張が、全身を駆け上がってくる感覚に。

修子は辛うじて耐えた。

思考は混乱し、上手く言葉が出てきそうになかったが。

ここで言わなければ、あとからもっと大変なことになるのだと。

理性は必死に、彼女を後押しする。


短気な本多が、根気強く言葉の続きを待っていることを知って。

彼女はようやく、決心した。

捨てられるなら、それでもいいと。

自分一人で、何とかしていくからと。


「…わたし」


「うん」


「 ―― 妊娠、してるみたいなんです」


その途端。

煙草を弄んでいた本多の指が、ぴたりと止まった。

それから彼は、その単語をゆっくりと反芻する。

一度ずらしたフォーカスを、再び合わせ直すように。


「…妊娠?」


頷きながら。

彼女は反射的に、視線を外した。

こんな状況で、彼の顔を見る勇気などなかった。

だが。

本多の反応は、意外なものだった。


「それって…どうして判った?」


「昨日、トイレに立った時。言われたんです」


「じゃあ、そういう兆候も当然あったんだろう?生理が遅れてるとか、体がだるいとか…」


「…ええ」


「ストレートな言い方は許してくれるよな。こう見えても、一度は女房がいた身だから」


「はい」


「…それで。どうしたい?」


「……」


長い間、修子が答えられずにいると。

指先に挟んだ煙草を、ケースにしまったのち。

彼は、思いがけない言葉を口にした。


「…いい、きっかけだな」


「え?」


「俺と、一緒になるか」


信じられず。

彼女は、本多の顔を凝視する。

そんな返事が来るとは、予想もしていなかったのだ。


「長期のツアーは体に障るだろう。もし何なら、先に日本に帰っていてもいいし」


「え、あの。本多さん」


「うん?」


「いいんですか?」


「いいって、どういうこと」


「つまり、その…」


「堕ろせって、言って欲しい?」


「……」


「そう、言われると思ってた?」


「…はい」


「俺は、そこまで悪辣な男じゃないよ」彼は、サングラスをかけ直して笑う。「きちんと責任は取らせてくれ」


「でも…」


「うん」


「わたしで…いいんですか?」


「好きでもない女を連れ歩くほど、酔狂じゃないさ」


「……」


「早速、叔父貴に報告しないと。怒られそうだけど。一応、君の後見人だからね」


「…はい」


「そんな顔しないで。君にとっても初めてのことだろうし。おめでたいことなんだから」


修子の頬を撫でながら。

彼は、微笑んだ。


「心配することない。ラスベガスの仕事が終わったら、一旦日本に戻るといい。すぐに手配させるから」


「はい。すみません…」


「謝ることはないよ。俺だって嬉しい。前の女房とは、からっきし駄目だったからな」


人目も(はばか)らず、キスをして。

彼は一見、上機嫌そうに見えた。

しかし。

本多の優しさに胸打たれる一方で。

修子の不安は消えた訳ではなかった。

これが、本当に彼の子供であるのか。

彼女自身にも、確信は持てなかったからだ。

 

 

 

 

 

 

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