第四話
「…何だか、らしくないなぁ」
明に言われて。
彼は、思わず顔を上げる。
「え?」
「さっきから、溜息ばっかりついて」
「そうかな」
「そうだよ。ここのとこ、何を言っても上の空じゃない」
チーズ・トーストを齧りながら、彼女はぼやいた。
「そんなことないよ」
「ふうん。そうは思えないけど」
指先についた粉を払いつつ、明も溜息をついた。
そんな仕草が、可愛らしくて。
彼はつい、微笑んでしまう。
「なあ、明」
「ん?」
「随分ゆっくりしてるけど、大丈夫なのか?」
「何が?」
「レコーディング。あるんだろう?」
「ああ。大丈夫。渋谷だから、ここからすぐ行ける。スタジオ入ったら長丁場だし」
「なら、いいけど」
空になった皿とカップを下げながら。
彼はまた無意識に、溜息をついた。
「ほら、また!」
明が、鋭く言う。
「もう、どうしたのさ? ほんと、おかしいよ。ひょっとして、例の人と何かあったの?」
「まさか。彼女はただの客だよ。何かなんて…」
そう、言いかけて。
彼はふと、口をつぐんだ。
「あったと言えば、あったかもしれないけど…」
「…やっぱり!」
「いや、別にそういうんじゃないよ。俺、彼女を怒らせたみたいだったから」
「はぁ? 何でまた?」
「それが、良く判らないんだけど…」
そう前置きしてから。
彼は明に、ことのいきさつを話した。
空になったグラスを押しやって、彼女は腕を組む。
「何それ。意味判んない」
「だろ? だから俺も、どうしていいのか…」
「まあ、気にすることないんじゃない? 気が向いたらまた来るよ。多分ね」
「だといいけど」
「ねえ。お湯。もう、沸いてる」
明が、コンロを指差した。
見ると、ポットが白い蒸気を吹き出している。
彼は慌てて火を止めた。
「銘さん、やっぱおかしいよ。ひょっとして、懸想しちゃってんじゃないの?」
「懸想?」
「例の人とさ。近頃、修子さんとも上手くいってないんだって?」
「アメリカ帰りの癖に、随分、雅な言葉を知ってるんだな」
彼は、笑顔を向けながら、ペーパーフィルターを取った。
「彼女のことはよく知らないし、修子と上手くいってない訳じゃない。ただ単に…」
「連絡が取れないだけ?」
「まあ、そうだね。でも、もう長い付き合いだし、特に心配してないけど」
「へえ。そういうものかな」
慎重に湯を注ぎ、粉が充分に膨らむのを確認しながら。
銘は、先週来た電話のことを思い出していた。
着信は、2時過ぎだった。
枕元の子機を取り、耳に当てると。
送話口の向こうから、強烈な音の洪水が流れてきた。
「もしもし?」
「あ、銘さん?」
辛うじて、その声が聴き取れた。
「どうしたの?」
「ごめん。今、ちょっと訊かれて…」
「何の話?」
「銘さんが参加したレコーディングで、ダリル・ジョーダンが入ってた奴、何だっけ?」
「…スコット・トレバーのカルテットかい?」
「そう。確か、それだと思った」
「"Live at Kenton House"」
「何年?」
「確か、1995年だったかな」
「判った。ありがとう」
「でも、どうしてそんなこと…」
「わたしが銘さんと付き合ってるって言っても、誰も信用しないの。だから…」
「ああ、証拠ってこと」
「ごめんね、夜遅く」
「いいよ。ところで、修 ―― 」
「ごめんなさい。またかけるから」
そう言うと。
彼女はすぐに、電話を切った。
さよならも、おやすみの言葉もなしで。
銘は、微かな苛立ちを堪えながら、子機を戻した。
彼女は、19歳。
ついこの前まで、都立高校の制服を着ていた。
念願の大学に合格し、ジャズ研に入部して。
講義やバイト、サークル活動をこなしながら、毎日慌しく過ごしている。
まだまだ、遊びたい盛りなのだ。
幾ら婚約者とはいえ、そんな彼女を、無闇に束縛したくはなかった。
再び静まり返った部屋の中で。
彼は、しばらく考える。
修子と出会ったのが、3年前。
彼女と二人の姉は、航空機事故で両親を亡くし、親戚に引き取られた。
その養父に乱暴されそうになった彼女は、咄嗟に家を飛び出し、偶然、この店に逃げ込んできた。
銘は彼女を匿い、店でバイトをさせながら、高校へ通わせた。
やがて彼女は、店に集うミュージシャン達のアイドル的存在になっていく。
その挙句。
新進気鋭のピアニスト、本多俊明と恋に落ちてしまう。
それでも。
純粋で世間知らずな修子から、彼は、目を離すことが出来なかったのだ。
結局。
本多は離婚したものの、修子を選びはしなかった。
それどころか。
大手レーベルに移籍するために、単身、ヨーロッパへ渡ってしまう。
事情を知る者達の中に、一人残された修子を、彼は放っておくことなど出来なかった。
だから、彼女の全てを、引き受けることにしたのだ。
この年。
彼はもう、29になっていた。
修子との年齢差は、丁度10歳。
初めから無理があったのかもしれないと、銘は思った。
自分は結局、本多から彼女を略奪したかっただけなのかもしれないと。
この日も結局、修子からの電話はなかった。
彼は、半ば、諦めていた。
こんなことは、珍しくないからだ。
閉店の、30分前。
彼はふと気が向いて、いつもより早い時間にウッド・ベースを手にした。
黒で統一されたステージに、一箇所だけ、スポットを当てる。
高いスツールを持ち出し、そこに腰を下ろした彼は、淡々とスケール練習を始めた。
弦の唸りに耳を傾け、自分のビートを確かめながら、音に意識を集中させる。
この時ばかりは、何もかも忘れることが出来た。
第一線を退いたことへの焦燥も、修子のことも。
自分を取り巻く様々な雑音から、解放されていくのが判る。
だから。
誰かが階段を降りてきたことにも、全く気付かなかったのだ。