第三十九話
目覚めた時。
明は一瞬、自分が何処にいるのか判らなかった。
ソファー・ベッドから身を起こすと、開け放したドアからは隣室が見える。
ベッドの上には、抱き合って眠っている二人の姿。
圭介と、彼の恋人だ。
(相変わらず、仲いいんだ)
思わず微笑みながら。
明は、足の爪先をラグの上に揃える。
今日は、どうしようか。
やや酒の残る頭を抱えながら立ち上がると。
部屋の主に、そっと声をかける。
「…圭介」
「うん?」
「ごめん。シャワー、借りていい?」
「ああ。タオルとか、いつものところにあっから…」
「サンキュ」
明がクローゼットを開けると。
彼の腕の中で、巧が微かな身じろぎをする。
「あ、ごめん」彼女は、慌てて言う。「起こしちゃったかな」
「大丈夫」圭介は、目を擦りつつ笑顔を返す。「いいよ、巧。まだ寝てて」
「あれ、明さん…?」
「昨日、うちに泊めたんだよ」
「そうだったっけ?」
「いいから。寝てろって」
その額にキスしたあと。
圭介は彼を抱き直し、再び目を閉じる。
二人とも、さすがにまだ眠そうだ。
勢いよく降り注ぐ、熱い飛沫を浴びながら。
明は、ボディー・ソープのポンプを押す。
手の平の上に溢れてくる真っ青な液体に。
いつしか、銘の姿を重ねていた。
彼がいつも着ている、ダンガリーのシャツや。
最近、店に置かれている、ガラスの抽象画。
その絵を見るたびに、冷やりとした何かを感じるのだが。
銘には、そのことを言えなかった。
(どうも、あれ…好きになれないんだよな)
店の鍵を返してしまって以来。
銘との間には、見えない壁が立ちはだかっているように思えた。
それは、或いは嫉妬なのかもしれない。
彼と、あの人妻に対する。
それとは別に。
修子のことが気になっていた。
本多と共に、ヨーロッパへ渡った彼女のことが。
これは本当に、正しいことなのか。
それぞれがそれぞれに、不幸になるばかりではないのか。
そんな予感が、明にはあったけれど。
誰に話せるものでもない。
幼い頃から。
そう考える癖がついていた。
生まれてすぐに、祖父母の元へ預けられて以来。
気付くと、これほど無口になっていた。
解き放たれることのない思いは音楽となって。
今は、自分の糧になっている。
それを支えてくれる人間は、思いのほか少なくて。
だからこそ。
銘が、最良のパートナーであることに変わりはなく。
彼以外と出来ない演奏があることを、明は知っていた。
でも。
もう、戻れない。
それもまた、根拠のない予感のひとつとして。
空しく、胸中を彷徨うだけだった。
「…修子ちゃん」
「はい」
「どうした? 遅れるぞ」
サングラス越しに、本多が微笑む。
LAXに降り立ったメンバーは、一様に疲れた様子だったが。
修子のそれは、疲労と呼べるほど生易しいものではなかった。
ロスアンジェルスを皮切りに、いよいよ、全米ツアーが始まる。
現地のコーディネーターと挨拶を交わしたあと。
本多は彼女の手を引いて、モーター・ホームへ乗り込んだ。
「日程に余裕があるから。この方が機能的だと思ってね」
マネージャーに運転を任せると。
彼は、大きなソファーに横になる。
カーテンを閉めると、そこは全くの密室で。
修子にはようやく、機能的という言葉の意味が判った。
「おいで」
悪びれもせず、本多は言う。
やや迷ってから。
彼女は、その傍に腰を下ろす。
揺れる車内で、横になっていたせいか。
起き上がると、酷い眩暈がした。
これまで、一度も体験したことのない気分の悪さ。
トイレへ行き、ひとしきり吐いてみたものの。
だるさは増すばかり。
「…どうした?」
本多の声がする。
大事なツアーの初日だと言うのに。
自分のせいで、彼を煩わせたくない。
修子は、咄嗟にそう判断した。
「大丈夫です。ちょっと、車酔いしたみたいで…」
「ジェット・ラグもあるのかな。何処かで休もう」
「いえ、ほんとに大丈夫ですから…」
「まあ、いいさ。飯でも食おう。連中も飽きてる頃だろう」
一行の車はハイウェイを降り、途中のレストランへ向かう。
車内でも、店へ入ってからも。
本多はずっと、彼女に付き添っていた。
「本当に大丈夫かい? 顔が真っ青だ」
「あ、でも。外の空気を吸ったら、大分いい感じです」
「そうか。参ったな。車酔いのことまで考えてなかったよ。いいアイディアだと思ったのに…」
そんな彼の優しさに、今なお、心を動かされる自分がいる。
本多の思いに、その期待に応えたい。
その一心で、ここまでついてきたものの。
長旅の疲れは、想像以上に溜まっていたようだ。
再び、レストランのトイレへ行き。
散乱したペーパーをどけ、嘔吐してみるのだが。
すでに、胃液しか出て来ない。
便座を下ろし、その上に力なく座っていると。
待ちきれずに、誰かが入ってきたようだった。
「…Ma'am?」
「Yes?」
「Are you all right?」
「Maybe…」
もう、出なくては。
気力を振り絞って、ドアを開けると。
目の前には、人の良さそうな若い女性が立っていた。
左手にはプラチナの指輪をし、上品な色合いのマタニティ・ドレスを着ている。
「I'm sorry…」
そう言って、微笑みを返したあと。
また急に、吐き気に襲われる。
洗面台に両手をつき、気持ち悪さに耐えながら。
一体、自分の体に何が起こっているのか。
修子には、想像もつかなかった。
その時。
例の女性が、こんな言葉を口にした。
優しく、彼女の背中をさすりながら。
「Oh, ma'am! Are you pregnant?」
「え?」
「By any chance, are you with child?」
女性はそう言うと、自分の腹を両手の平で撫で。
それから、修子の腹部にそっと触れてくる。
にっこり微笑みながら。
(…嘘でしょう?)
無心な笑顔に応えることも出来ず。
彼女は、愕然としていた。
もしそれが本当なら。
可能性は、あの数日間しかなく。
そのことを、彼に言える訳がない。
親切な夫人に支えられ、席へ戻ってからも。
彼女は、本多と目を合わせることが出来なかった。
そして。
この先、我が身に起こるであろう出来事を、想像する余裕すらなかった。