第三十八話
思いがけない名前を耳にして。
彼は瞬時に、言葉を失った。
そして考える。
これから、どうすればいいのか。
どう説明すればいいのか。
彩とのことを。
けれど。
その胸中を察したかのように、槙村英は言葉を繋ぐ。
「僕の妻が、お世話になってるみたいですね」
「お世話だなんて」彼は、しらを切ってみる。「多分、誤解なさってるんじゃないかと思いますが…」
しかし。
予想外なことに、槙村は、明るい声で言う。
銘の言葉を遮るようにして。
「いいんです。気にしないで下さい。僕は、咎めるつもりなんかありませんから」
「…え?」
「芸術家には、よくあることです。いっそ共有しましょうよ。あなたと僕とで」
思いがけない言葉に。
彼は、思わず耳を疑った。
自分の妻の愛人を突きとめ、電話をかけておきながら。
叱責するならまだしも、それを認めるような発言をするなんて。
これは、策略なのだろうか? と、彼は考えた。
さもなくば、何かの罠なのだろうかと。
それを明らかにするためにも、逃げずに話し合わなくてはならない。
銘は、そう決心した。
「…すみませんが」彼は、正直に告白する。「あなたが仰ることの意味がよく判らないんです」
「考えることなんかないです」男は、あっさりと言う。「あなたは好きに彩と会えば宜しい。これまで通りに」
「……」
「彩はね、芸術家ですよ。僕なんかには決して懐かない女です。そのことを承知で、僕は結婚したのですよ」
「……」
「年齢差もあるし、利害もある。彼女は絵を描きたい人だ。でも果たして、僕なしでやっていけるかどうか」
「……」
「それが怖いから、僕とは別れられない。けれど今、あなたと恋に落ちている。そういう現実がある」
銘は、答えられなかった。
相槌すら打てそうにない。
一体、この男は何を考えているのか。
自分を、そして彼女を、どうしたいと思っているのだろうか。
じっとりと、額に汗が滲むのを感じる一方で。
そんな言葉ばかりが、頭を駆け巡る。
「あの子は欲張りですよ。もの凄くね。普通ならありえないでしょう。世間様の謗りを受けて当然です」
おっとりとした話し方ながらも。
槙村の鋭い言葉は、彼の胸をも突き刺していた。
今更言われるまでもなく。
彩への非難は、そのまま、自分に向けられたものでもあるからだ。
「…それで」彼は、やっとの思いで口を開いた。「わたしに、どうしろと?」
「そう。それで、あなたにお願いがあるんですよ。僕から個人的にね」
「どんな、お話でしょう」
「愛人として、正規の契約を結びたいのですよ。それなりの報酬をお支払いしますから」
「契約?」彼は、驚いた。「突然、何を言い出すんですか?」
「ええ。そうすれば、彩はあなたのものです。どれだけ会って戴いても構いません」
「ちょっと待って下さい。そんなの ―― 」
「僕が日本にいる間は別ですよ。彼女には仕事がありますから。僕の妻を演じるという仕事がね」
「……」
「滑稽かとお思いでしょうが。これは大事なことです。でなければ、彼女の存在理由はなくなってしまうから」
彼女をまるで、ペットか何かのように言う槙村の態度に。
銘は知らず、血が滾っていくのを感じていた。
あの病院で出会った頃。
彼女は、無垢で純真な子供だった。
親を亡くし、苦学した末に、槙村の愛人となり。
挙句、飾り物のような扱いをされているだなんて。
彩のこれまでを知っているだけに。
彼は、こう抗弁せずにはいられなかった。
「…お言葉を返すようですが」
「はい」
「わたしにはどう考えても、それが、まともなこととは思えないのです」
「どういうことです?」
「彼女は、あなたの妻である前に、一人の人間です。それを、金や契約で縛ろうとするなんて ―― 」
銘が話している途中で。
電話の相手は、くすくす笑い出し。
それはじきに、常軌を逸した哄笑へと変わっていく。
受話器を握り締めながら。
銘は、自分の中の炎がくすぶり始めるのを感じていたが。
それを今、表に出すことだけは、避けなければならない。
「槙村さん」彼は、不愉快な気持ちを抑えて言う。「何がおかしいんです?」
「だって、ねえ、あんまりじゃないですか。あなたは今、自分がしてること判ってますか?」
槙村に言われて。
銘は、はっと我に返った。
いつの間にか、自分の置かれている状況も、立場も忘れていたのだ。
「ああ、おかしい。長生きはするものだ。まさか、間男に説教されるだなんて。僕は思いもしませんでしたよ」
「……」
「まあ、いいでしょう。あなたは思いのほか誠実な方のようだ。だから僕も、いろいろと考えたのですよ」
「……」
「ねえ、郁崎さん。恋とはね、不可欠なものですよ。霊性を高め、身体を清浄にする。いいことです」
「……」
「でもね、いつかは醒める時が来る。あなたのようにお若い方は、ご存知ないかもしれないが」
「何と言われようと、彩さんへの気持ちは変わりません」彼は、その声を撥ね退けるように言う。「絶対に」
「そうでしょうかね。彩は、あなたが考えているほどまともな女じゃないですよ。今に判ります」
「あなたにそんなこと、言われる筋合いは…」
「条件は、呑んで戴けるんですね?」
「いいえ」銘は、きっぱりと言う。「わたしは、あなたと契約するつもりはありません」
「へえ。では、これからどうするつもりです?」
そう訊かれて、彼は一瞬、返答に窮したが。
咄嗟に、思いついて言う。
これまで、胸の奥に秘めていた言葉を。
「別れて下さい。彩さんと」
「ほう」彼は、揶揄うように笑った。「どうして僕が、彩と別れなければならないんです?」
「あなたといても、彼女は絶対に幸せにはなれない」
「まあ、そうでしょうね」彼は、素直に肯定する。「そんなことは、彩も判っていますよ」
「だったら、何故…」
「まあ、要するに、交渉決裂ということですな」槙村は、穏やかな声で言う。「Buena ideaだと思ったんですがね」
「何ですって?」
「あなたはスペイン語も達者だと。修子さんから伺ってましたけどね」
「え?」
「別れた恋人のことなど、もう、忘れてしまいましたか?」
聞き返す間もなく。
電話は、切られてしまった。
銘はしばらく、呆然としていたが。
やがて、その受話器を電話機の上に置く。
右腕には、痺れが残っていた。
彼には、数分としか思えなかったが。
実際には、三十分近い時間が経過していた。
カウンターに座り直し、さっきまでの会話を思い出してみたところ。
槙村の言葉が、警告であることには気付いていた。
修子の名前が出された時点で。
彼は、微かな胸騒ぎを感じていたけれど。
槙村英に直接、挑戦状を叩きつけたことと。
彩への思いを口に出したことを、後悔したりはしなかった。
彼の意思がどう転ぼうと。
好むと好まざるに関わらず。
全ては、動き出してしまったのだから。




