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青の旋律  作者: 一宮 集
38/55

第三十八話

思いがけない名前を耳にして。

彼は瞬時に、言葉を失った。

そして考える。

これから、どうすればいいのか。

どう説明すればいいのか。

彩とのことを。


けれど。

その胸中を察したかのように、槙村英は言葉を繋ぐ。


「僕の妻が、お世話になってるみたいですね」


「お世話だなんて」彼は、しらを切ってみる。「多分、誤解なさってるんじゃないかと思いますが…」


しかし。

予想外なことに、槙村は、明るい声で言う。

銘の言葉を遮るようにして。


「いいんです。気にしないで下さい。僕は、咎めるつもりなんかありませんから」


「…え?」


「芸術家には、よくあることです。いっそ共有しましょうよ。あなたと僕とで」



思いがけない言葉に。

彼は、思わず耳を疑った。

自分の妻の愛人を突きとめ、電話をかけておきながら。

叱責するならまだしも、それを認めるような発言をするなんて。

これは、策略なのだろうか? と、彼は考えた。

さもなくば、何かの罠なのだろうかと。

それを明らかにするためにも、逃げずに話し合わなくてはならない。

銘は、そう決心した。



「…すみませんが」彼は、正直に告白する。「あなたが仰ることの意味がよく判らないんです」


「考えることなんかないです」男は、あっさりと言う。「あなたは好きに彩と会えば宜しい。これまで通りに」


「……」


「彩はね、芸術家ですよ。僕なんかには決して(なつ)かない女です。そのことを承知で、僕は結婚したのですよ」


「……」


「年齢差もあるし、利害もある。彼女は絵を描きたい人だ。でも果たして、僕なしでやっていけるかどうか」


「……」


「それが怖いから、僕とは別れられない。けれど今、あなたと恋に落ちている。そういう現実がある」


銘は、答えられなかった。

相槌すら打てそうにない。

一体、この男は何を考えているのか。

自分を、そして彼女を、どうしたいと思っているのだろうか。

じっとりと、額に汗が滲むのを感じる一方で。

そんな言葉ばかりが、頭を駆け巡る。


「あの子は欲張りですよ。もの凄くね。普通ならありえないでしょう。世間様の(そし)りを受けて当然です」


おっとりとした話し方ながらも。

槙村の鋭い言葉は、彼の胸をも突き刺していた。

今更言われるまでもなく。

彩への非難は、そのまま、自分に向けられたものでもあるからだ。


「…それで」彼は、やっとの思いで口を開いた。「わたしに、どうしろと?」


「そう。それで、あなたにお願いがあるんですよ。僕から個人的にね」


「どんな、お話でしょう」


「愛人として、正規の契約を結びたいのですよ。それなりの報酬をお支払いしますから」


「契約?」彼は、驚いた。「突然、何を言い出すんですか?」


「ええ。そうすれば、彩はあなたのものです。どれだけ会って戴いても構いません」


「ちょっと待って下さい。そんなの ―― 」


「僕が日本にいる間は別ですよ。彼女には仕事がありますから。僕の妻を演じるという仕事がね」


「……」


「滑稽かとお思いでしょうが。これは大事なことです。でなければ、彼女の存在理由はなくなってしまうから」



彼女をまるで、ペットか何かのように言う槙村の態度に。

銘は知らず、血が(たぎ)っていくのを感じていた。

あの病院で出会った頃。

彼女は、無垢で純真な子供だった。

親を亡くし、苦学した末に、槙村の愛人となり。

挙句、飾り物のような扱いをされているだなんて。

彩のこれまでを知っているだけに。

彼は、こう抗弁せずにはいられなかった。



「…お言葉を返すようですが」


「はい」


「わたしにはどう考えても、それが、まともなこととは思えないのです」


「どういうことです?」


「彼女は、あなたの妻である前に、一人の人間です。それを、金や契約で縛ろうとするなんて ―― 」


銘が話している途中で。

電話の相手は、くすくす笑い出し。

それはじきに、常軌を逸した哄笑へと変わっていく。

受話器を握り締めながら。

銘は、自分の中の炎がくすぶり始めるのを感じていたが。

それを今、表に出すことだけは、避けなければならない。


「槙村さん」彼は、不愉快な気持ちを抑えて言う。「何がおかしいんです?」


「だって、ねえ、あんまりじゃないですか。あなたは今、自分がしてること判ってますか?」


槙村に言われて。

銘は、はっと我に返った。

いつの間にか、自分の置かれている状況も、立場も忘れていたのだ。


「ああ、おかしい。長生きはするものだ。まさか、間男に説教されるだなんて。僕は思いもしませんでしたよ」


「……」


「まあ、いいでしょう。あなたは思いのほか誠実な方のようだ。だから僕も、いろいろと考えたのですよ」


「……」


「ねえ、郁崎さん。恋とはね、不可欠なものですよ。霊性を高め、身体を清浄にする。いいことです」


「……」


「でもね、いつかは醒める時が来る。あなたのようにお若い方は、ご存知ないかもしれないが」


「何と言われようと、彩さんへの気持ちは変わりません」彼は、その声を撥ね退けるように言う。「絶対に」


「そうでしょうかね。彩は、あなたが考えているほどまともな女じゃないですよ。今に判ります」


「あなたにそんなこと、言われる筋合いは…」


「条件は、呑んで戴けるんですね?」


「いいえ」銘は、きっぱりと言う。「わたしは、あなたと契約するつもりはありません」


「へえ。では、これからどうするつもりです?」


そう訊かれて、彼は一瞬、返答に窮したが。

咄嗟に、思いついて言う。

これまで、胸の奥に秘めていた言葉を。


「別れて下さい。彩さんと」


「ほう」彼は、揶揄うように笑った。「どうして僕が、彩と別れなければならないんです?」


「あなたといても、彼女は絶対に幸せにはなれない」


「まあ、そうでしょうね」彼は、素直に肯定する。「そんなことは、彩も判っていますよ」


「だったら、何故…」


「まあ、要するに、交渉決裂ということですな」槙村は、穏やかな声で言う。「Buena ideaだと思ったんですがね」


「何ですって?」


「あなたはスペイン語も達者だと。修子さんから伺ってましたけどね」


「え?」


「別れた恋人のことなど、もう、忘れてしまいましたか?」



聞き返す間もなく。

電話は、切られてしまった。

銘はしばらく、呆然としていたが。

やがて、その受話器を電話機の上に置く。

右腕には、痺れが残っていた。

彼には、数分としか思えなかったが。

実際には、三十分近い時間が経過していた。



カウンターに座り直し、さっきまでの会話を思い出してみたところ。

槙村の言葉が、警告であることには気付いていた。

修子の名前が出された時点で。

彼は、微かな胸騒ぎを感じていたけれど。

槙村英に直接、挑戦状を叩きつけたことと。

彩への思いを口に出したことを、後悔したりはしなかった。

彼の意思がどう転ぼうと。

好むと好まざるに関わらず。

全ては、動き出してしまったのだから。

 

 

 

 

 

 

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