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青の旋律  作者: 一宮 集
37/55

第三十七話

その日も、朝から雨が降り続いていた。

営業前の練習を止め、銘は、楽器をスタンドに立てかける。

ステージの照明を落とし、カウンターへ向かうまでの間。

何故か、溜息が出る。



季節はもう、移ろいつつあるけれど。

ヨーロッパからの便りはなかった。

焼け付くような恋を手に入れたと同時に。

彼は、穏やかな日常を失った。

彩の夫が日本へ帰ってくるたびに、心は俄かに波立って。

救い難い嫉妬に振り回されることになる。

平穏は彼を見放し、安らぎも今はない。

これが、自分の望んでいたものなのか。

そう、自問してみたところで。

答えなど、出る筈がなかった。



あの夜から。

警告らしきものは、何度となく続いていた。

日に数十回繰り返される無言電話や、毎日のようにポストへ残される白紙の手紙。

けれど。

警察が言うように、誰も傷つけられてはいないのだし。

思い過ごしだと言われればそれまでだ。


子供じみた嫌がらせに気付くたび。

誰が、何のためにしているのか。

そんなことを考えたりも、時にはするけれど。

恨みを持たれるような相手は、一人しか思いつかない。

修子と別れ、彩と付き合うようになってから。

客足は、ぱったりと途絶え。

出演を依頼しても、断られるようになった。

明を除いては。




そろそろ、シャッターを上げなくてはならない時間なのに。

彼は、指一本動かしたくはなかった。

美しく、才能ある恋人 ―― とは言え、それは人妻なのだが ―― がいる幸せと引き換えに、いろいろなものを失ってしまったことを、銘はあらためて悟った。

それでも。

彩を手放すことなど、彼には最早考えられず。

道ならぬ恋故の苦難を甘受し、耐え忍ぶ覚悟はとうに出来ていた。

壁にかかる絵を見るたびに。

揺らぎそうになる信念を、彼は見つめ直す。

この絵を初めて目にした時の感動を思い出し。

彩を初めてこの腕に抱き締めた時の感触を。

ひとつひとつ、確かめながら。







「お疲れ」


「お疲れさーん」


愛想良く手を振って、明は自動ドアを潜っていく。

六時間に渡るレコーディングのあとで、体は疲れを感じていたけれど。

頭は奇妙に冴え渡っていた。

そして。

銘のことが、ずっと気になっていた。

彼と、彼に(まつ)わる噂のことが。




「明!」


急に、背後から名前を呼ばれ。

彼女ははっとして振り返る。

長身に黒のレザージャケット、長い茶髪。

背中には、テナーのソフト・ケース。

一目で、その人と判る。


「何だ、圭介か」


「相変わらずひでぇ奴。そんな言い方するなんて」


「どうしたの? 今日、休み?」


「バイトの帰り。銘さんとこ、寄って行こうと思って」


「へえ」


「ひょっとして、お前もそう?」


「うん。何だか気になって…」


「やっぱそうか。最近、おかしいもんな」


「野暮なことは言いたくないけどね。女絡みだと思うから」


「ああ、例の人妻か」


「もう、皆知ってるんだ」明は、肩を竦めた。「バンドマンは、こういう話好きだから」


「銘さんは特に、これまで浮いた話がねぇ人だから。格好の話題になってるよ」


「浮いた話ね。あの人は、滅多にプライベートを明かさないから」


「俺と違ってな」


「そうだ! 巧くん、帰って来てるんだって?」


「ああ」今度は、彼が肩を竦める番だった。「先週末からな」


「じゃあ、ラブラブじゃん」


「まあ、ぼちぼちってとこ。なんで、悪いけど、しばらくうちには泊めてやれねぇから」


「何だかなぁ」明は笑顔で答える。「うちのメンバー、何だかんだ言って、全員相手がいるんだよね」


「葵はいねーぞ?」


「あれは、橋元さんの愛人だから」


「噂だけだろう?」


「いや、ほんとの話らしい」


「そうか? だって、年、違い過ぎるじゃねぇの? 橋元さん、確かもう…」


「四十一」


「よく知ってるな?」


「青と同期だもの。だから余計、僕を目の仇にするんだよ」


ジーンズのポケットに手を突っ込みながら、明は空を仰ぐ。

夕暮れが、すぐそこまで迫っていた。





"Riot"のドアを開けると、珍しく、客が入っていた。

それも、学生のような若い連中ばかり。

やや、居心地の悪さを感じながらも。

明と圭介は、カウンターの隅に腰を下ろす。


「忙しそうだね」


明が声をかけると、銘はようやく微笑んだ。


「何か、何処かの雑誌に紹介されたらしくて」


「へえ。それで、若い人ばっかりなんだ」


「そう。まあ、ありがたいと言えば、ありがたいんだけど…」


そう話す合間にも。

客から、声が飛ぶ。


「すみませーん!」


「はい」


「ちょっと、うるさくて話出来ないんでー。もっと、音低くして貰えますー?」


「あ、はい」


銘は言われた通り、スピーカーのボリュームを下げる。

それを見て。

明と圭介は、思わず顔を見合わせた。


「…銘さん?」


「うん?」


「何やってんの?」苛立ちを露わにして、明が言う。「ここは、音楽を聴かせる店でしょ?」


彼女の剣幕に釣られ。

啓介も、思わず口を挟む。


「そうだよ銘さん。ライブハウスと知ってて来てる癖に。失礼じゃん? 馨さんならあんな客、叩き出してるよ」


「そうはいかないって」と、彼は笑う。「若い子だから、そういうのが判らないんだろう」


「判らなければ、マスターが教えてやるべきじゃないの?」


「とりあえず、ライブとかやってる日じゃないし。仕方ないよ」


「でも ―― 」


言いかけて。

明は、口をつぐむ。

言っても無駄だ。

何故か、そう思ったからだ。





とりあえず、長居をやめ。

二人は早々に、店をあとにした。

酷く、もやもやした気分のまま。

湾岸道路を過ぎる、ヘッド・ライトの中で。

ふと、明が呟く。


「…銘さん」


「うん?」


「変わったよね」


「…まあ、確かに変わったな」


「前は、あんなじゃなかったのに…」


「だよな。何だか、違う人みてぇな感じ、したよ」


「…圭介」


「うん」


「うち、寄ってく? それとも、このまま…」


「寄らせろよ」彼は、間髪入れずに言う。「何か、このまま帰れる雰囲気じゃねぇから」


「巧くん、どうするの?」


「メールしとく。約束してた訳じゃねーし。一人で部屋にいるのとか、平気な奴だし」


「…ごめん」


「謝んなって」圭介は、彼女の頭を乱暴に撫でた。「こんな状態で、お前を一人にしておけるかよ」





閉店後。

銘は、掃除を終え、時計を見る。

いつもなら、彩の来ている時間だ。

それなのに、メールもなければ、電話もない。


(どうしたんだろう)


何度も、携帯を確かめるものの。

着信は一つもなかった。

何かあったのかと、気は急くけれど。

彼はその不安を押し殺し、レジの精算を始める。



そこへ。

店の電話への着信。

彼は反射的に、ディスプレイを見る。

案の定、非通知だ。


しばらく悩んでから。

銘は一度、深呼吸して。

それからおもむろに、通話ボタンを押す。


「…はい、"Riot"です」


いつもなら、相手は何も言わない。

言わずに黙って、彼が電話を切るのを待っている。

けれど。

この時に限って、相手は話すつもりだったらしい。


「 ―― 郁崎さん?」


いきなり、そう呼ばれて。

彼は、はっとした。


「はい、そうです」


答えながら。

彼は、相手の声に、(わず)かながら聞き覚えがあることに気付いていた。

どちらかと言うと中性的な、掠れた感じの声。

しかし。

それが誰なのか。

彼には、どうしても思い出せない。

冷ややかな沈黙の中。

男が、言葉を紡ぐ音が聞こえるような気さえした。

そして。

彼は、聞くことになる。

これまで、一番恐れていた人物の名を。



「槙村です」

 

 

 

 

 

 

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