第三十六話
「最近、見なかったな」
「そう?」
「忙しかったのか?」
「そうでもないけど」
明は、清書中の譜面から、顔を上げて答える。
「アレンジとか、DTMとか。あと、スタジオでの仕事が増えたからね」
「へえ」
「昨日録音したのは、スーパーとか、ホーム・センターでかかってるような奴」
「イージー・リスニングみたいなもの?」
「単なるBGMだよ。聴いたところで、誰も僕だとは思わないような」
「珈琲は?」
「貰うよ」
カウンターの上に、五線紙を広げ。
子供のようにうつ伏せて、明は写譜ペンを動かした。
相変わらず、綺麗な譜面を書く。
やや赤みを帯びた髪が、その上にはらりと落ちた時。
細く白い首筋が、隙間から覗く。
その時。
彼ははっとして、目を逸らした。
札幌から帰って以来。
彩はほぼ毎晩、彼の元を訪れていた。
時間の許す限り体を重ね、朝になると帰っていく。
まるで、通い婚みたいね。
そう言って、彼女は笑うけれど。
銘の胸には、常に、一抹の不安があった。
夫のある女性と、こんな風に会っていていいのだろうか。
こんな逢瀬を続けていていいのだろうか。
人には言えない恋に、自分が易々と身を投じてしまったことを。
彼は、今も信じられずにいた。
無邪気で、明るくて。
誰よりも、芸術に近い場所にいる。
彩と過ごす時間は、楽しかった。
しかし。
彼の心の何処かにはいつも、底知れない空白があり、微かな警鐘さえ鳴っていた。
著名な画家の夫人と、密かに通じている自分。
その現実に対する不安は尽きなかったものの。
銘は、敢えてその背徳から目を逸らすことにしていた。
でなければ。
とても、こんな関係を続けていけそうになかった。
「…また、考え事?」
明が、棘のある言い方をする。
「そういう訳じゃないよ」
「そうかな。最近、心ここにあらずって感じじゃん」
長い睫を伏せ、珈琲を口にする明を前にして。
彼は、訊きたいと思っていた。
敷き詰められた薔薇の意味を。
けれど、どうしてもそれは出来そうにない。
万が一、あの豪華な演出が、明によるものでなかったら。
自分は、より一層の恐怖を味わうことになる。
何故だか、そんな予感がしていた。
あのあとすぐ。
修子は大学を中退し、本多を追ってヨーロッパへ渡った。
親代わりを務める馨の元へは、こまめに連絡が来ているものの。
予想通り、銘には、電話の一本すらなかった。
カウンターの背後にあるキー・ボックスの中には、銀色の音叉があった。
札幌で、修子と一緒に買ったものだ。
今はもう、誰とも響き合うこともないそれを、彼は大事にしまっていた。
彼女との思い出を封印するかのように。
その夜。
店を閉め、掃除をしている最中に、彩が来た。
「手伝おうか?」
「いや、いいよ。もう終わるから」
彼は笑顔を返し、カウンターに座るよう促した。
「最近、時間通りに終わるのね」
「そうだね。特に平日は」
「暇ってこと?」
「まあ、忙しくはないかな」彼は、やんわりと肯定する。「週末を除けば」
「…ねえ」
「うん?」
「それって、わたしのせい?」
「まさか。どうしてそんなこと…」
「何となく」
「ありえないね」彼は即座に否定した。「元々、繁盛してる店でもないし。気にすることないよ」
「そうかな」
「そうだよ」
「それならいいけど…」
彩が、そう言いかけた時。
頭上で、大きな物音がした。
誰かが、シャッターを足で蹴ったような。
「何かしら」
「彩さんはここで待ってて。見てくるよ」
「大丈夫?」
「大丈夫だよ。多分、酔っ払いだろう」
彼は、やや苛立ちを覚えつつ、階段を上る。
暗がりの中で鍵を外し、でシャッターを開けると。
思った通り、そこには誰もいなかった。
(やっぱり、悪戯か)
そう思い、店へ戻ろうとした時。
足元に、柔らかい感触があることに気付いた。
ふと視線を落とした銘の目に、得体のしれないものが飛び込んでくる。
シャッターの前から、歩道に到るまで。
ぬめぬめと光る何かの内臓と思しきもの。
腸や心臓、胃などの塊が、大量にぶちまけられており。
路上は一面、鮮血に染められていた。
真っ赤な海に、足を踏み入れたまま。
彼はしばし、言葉を失った。
単なる嫌がらせにしては、悪質過ぎる。
そう思いながらも、怒りよりむしろ、恐怖を覚えずにはいられなかった。
あの薔薇も、この血も、やはり警告なのだと。
恐らく、彩のことに対する。
銘はようやく、そう確信するに至ったのだ。
その時。
「 ―― 銘さん?」
彩の、無邪気な声が耳を打つ。
「まあ…」彼女は、そこへしゃがみこんだ。「誰が、こんなことを」
「判らないよ」彼は、うつろな眼差しを向け、携帯を取り出した。「とにかく、警察に連絡してみる」
「こんなことぐらいで、警察は動かないわよ」
「え?」
「誰も傷付いてないし。何も壊されてないもの。きっと、話も聞いてくれないわ」
彩は、他人事のようにくすくす笑った。
それから、その血に右手を浸す。
「それより、見て。何て綺麗な赤なの?」夢見るように、彼女は言う。「この色を、そのまま使えるといいのにな…」
普通の女性なら、気持ち悪いと目を背けるであろう時。
彩が放つ無邪気な言葉と、陶然とした目付きに。
銘は、戦慄を覚えていた。
そうとも知らず。
憑り依かれたように、撒かれた血を掻き集める彩。
芸術が、彼女を狂わせたのか。
それとも。
そんな彼女を怖いと感じる自分がおかしいのか。
彼には、判らなくなっていた。