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青の旋律  作者: 一宮 集
34/55

第三十四話

長いエスカレーターに乗り、渡り廊下を通ると。

思いがけず広い空間が、目の前に現れた。

頭上のガラスを透かして降り注ぐ日差し。

その熱気に、エア・コンディショナーの微かな冷気が交じり合う中。

二人は手すり越しに、階下の風景を眺めていた。


「ほんとだ。随分開放的なところだね」


と、銘が笑顔を向けると。

修子はそっと、手を握ってくる。


「吹き抜けだからね。この残響が心地良いの」


「判るよ。何だか、音楽が聴こえてきそうだ」


そう言って、彼は目を閉じた。

清浄な空気を吸い込むようにして。


不意に。

細い両腕が、彼の首に回されて。

柔らかな感触が、重なってくる。


しんとした、回廊の最上階で。

二人は何度も、口付けを交わす。

年若い恋人同士のように。

しかし。

そんな時間も、もうすぐ、終わりを告げようとしていた。

この街を離れてしまえば。

彼女は、他の男の元へ。

彼は、他の女の元へ去らなければならない。

懸命に、互いを求めれば求めるほど。

その距離を、思い知らされるだけだった。




それから。

修子は、思いついたように、彼の手を引いた。

向かった先は、CDショップ。


「銘さんが参加してる奴、この前見つけたの」


そう言って、一枚のCDを抜き出してみる。

裏のクレジットには確かに、銘の名前があった。


「まだ、売ってるんだな」


彼は、感心して言った。


「リチャード・ラファティは有名だもの。この頃は、そうでもなかったの?」


「まあね。俺も奴も、近所のイタリア料理店でバイトしてて。それで知り合ったんだ」


「そうなの?」


「うん。当時奴はアルトでね。俺が、テナーの方が向いてるって言ったんだ」


ジャケットには、テナー・サックスを構えた、黒い肌の青年が写っている。

彼はそれを、如何にも懐かしそうに眺めた。


「感慨深いね。あの頃一生懸命やってた連中は、皆、ビッグになって…」


「……」


「俺は、名も無き市井の人間に成り下がっちまったな」


自嘲気味に、そう呟くと。

修子は黙って、手を握ってくる。


「…銘さん」


「うん」


「そんな風に言わないで…」


「……」


「出来るなら、また、銘さんのベースを聴きたいって思ってる人は、沢山いるんだから」


「…そうだろうか」


「レイナさんも、わたしも。本多さんだって ―― 」


その名を口にした時。

彼女は、はっとして彼を見た。

しかし。

銘は、いつものように微笑むだけだった。


「…そうだよね」


「銘さん、ごめんなさい。わたし…」


「いや、いいよ。嬉しいから。本多さんがそんな風に思ってくれてるなんて」


彼は、持っていたケースを棚に戻し、本多のCDを手にする。

人気のあるピアニストだけあって、リーダー作だけで1ブロックを占めている。

ジャケットには、やや若い本多の姿があった。

撮影用のペーパーの前、無造作に手を組んだ写真。

引き気味のショットだが、恐ろしく整った顔立ちと、意思の強そうな瞳は健在だ。

しばらくの間。

銘は何も言わず、そのジャケットに視線を落としていた。


「…凄いよ、あの人は。俺は、どうやったって敵わない」


「……」


「だから…」


「うん」


「俺に、遠慮することないぞ」


修子は、怪訝な顔をした。

その頭を撫でながら、彼は微笑みを返す。


「行くんだろう? 向こうに」


「…え?」


「本多さんに、メールしてただろう、昨日」


「ううん、違うの。あれは…」


咄嗟に首を振る修子を制して、彼は続けた。

自分に、言い聞かせるようにして。


「いいんだ。怒ってる訳じゃないよ。だから、大学のことも、気にしなくていい」


「でも…」


「休学するなり、中退するなり。修子の好きにしなさい」


思わず。

父親のような言い方をしていることに、彼は気付いていた。

そして。

それが、自分の役割だと思っていた。

恋人でも婚約者でもない自分が彼女に出来ることは、心穏やかに送り出してやることだけだと。

彼はそう思っていたのだ。





駅に戻り、空港に向かうまでの間。

二人はずっと、手を繋いでいた。

丁度、札幌へ向かう列車の中でしたように。

唯一、違っていたのは。

銘の方から、彼女の手を取ったことだった。

この日。

彼は一度も、携帯を手に取らなかった。

バッテリーが残り少ないこともあったが、今日一日は、修子に気持ちを預けておきたいと思ったためでもあった。

肩に寄りかかる彼女の重さを、愛おしく思いながらも。

銘にはまだ、迷いがあった。

修子と別れ、彩に向き合うことへの。

しかし。

もう、全ては動き出してしまい。

彼自身にも、最早、どうすることも出来なくなっていた。





チェック・インを済ませ、空港内を少し見て歩く。

沈黙を恐れ、いつも以上に饒舌になる銘とは対照的に、

修子は、殆ど口を利かなかった。

そんな風に、静かに寄り添っている間にも。

搭乗時間は、刻一刻と迫ってくる。

あのゲートを潜ってしまえば、再び、修子とこうして歩くことはないだろう。

そう思うたびに、彼の胸は塞いだが。

全ては、自分が蒔いた種でもあった。



やがて。

アナウンスと共に、人々がゲートに殺到する。

銘は、ゆっくりと彼女の腕を外した。

それから。

何か、言わなくてはと思ったのだが。

気の利いた言葉など、何一つ浮かばない。


「…修」


「うん」


「体に、気を付けて」


「ありがとう。銘さんもね」


「それと…」


「うん」


「何かあったら、必ず連絡して」


「判った」


「あと…」


「うん」


「今まで、ありがとう…」


「……」


「ほんとに、ごめん…」


「ねえ、そんなこと言わないで…」


「……」


「一生懸命、我慢してたのに。泣きたくなっちゃうから」


そう言うと。

修子は右手で、口元を押さえた。

必死に、嗚咽を堪えるようにして。

その姿は。

彼の胸を、深々と(えぐ)った。


「…銘さん」


「うん」


「あのね…」


彼女は、何故か躊躇いながら、口を開いた。


「彩さんと ―― 」


「え?」


「彼女と…幸せになってね」


彼は、耳を疑った。

しかし。

修子は、涙を拭いながらも、懸命に笑顔を作っている。


「ごめん。わたし、気付いてたんだ…」


「…嘘だろう?」


「昨日、充電しておいたから。わたしの番号は、入れなくていいからね」


「・・・修」


「どうせ、もうすぐ、向こうに行くんだし…」


銘は、何と答えていいか判らなかった。

修子が、携帯の存在を知っていたことなど、彼には予想すら出来なかった。

呆然としている彼の耳には、搭乗を促すアナウンスしか聞こえない。

それでも。

溢れ出す涙を、止めずに去ることは許されない気がした。



足早に通り過ぎる人々を黙殺し。

彼は、人目も憚らず、彼女を抱き締めた。

壁際に、その細い体を押し付けるようにして。

時間ぎりぎりまで、口付けを交わしながらも。

銘は、何も言わず、何も言えなかった。

そうして。

修子の中に残した心を、掻き集めようとしていた。

自らの戒めとして。

近い将来、失われてしまうであろう思いを。

 

 

 

 

 

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