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青の旋律  作者: 一宮 集
33/55

第三十三話

地下鉄の駅を出て空を仰ぐと、満天の星が出ていた。

東京とは違う、乾燥した涼やかな空気が心地良い。

夜風の中。

二人はアパートまで、並んで歩いた。



その途中。

修子は、訊いてみる。


「明日、何時発の飛行機?」


「十九時丁度」


「じゃ、夕方まで一緒にいられるんだ」


「そうだけど…大丈夫かい?」


「何が?」


「大学とか、バイトとか」


「ああ。全然。だって、銘さんが最優先だもの」


笑顔を見せながら、彼女は、手を繋いでくる。


「…向こうにいた頃、よくこうやって散歩したよね」


「そうだね。赤坂、六本木、青山…あちこち行ったな」


「夜の街って、凄く好きなの。三田に越す前は、川崎の山の中だったから」


「百合が丘だったっけ?」


「そう。父さんは、そこから都内の大学に通ってたの。ラッシュが嫌いでね。京王線乗るの嫌だって言ってたな」


その横顔を眺めている時。

銘の胸は、ちくりと痛んだ。





今から三年前。

彼がたまたま、早く店を開けていた時。

半分開けたシャッターの隙間から、修子は、中へ駆け込んできた。

真新しい制服は半ば引き裂かれ、全身はずぶ濡れで。

その姿を見た瞬間。

銘は彼女の身に、何が起こったのかを悟った。



その後。

彼女の義父との様々な話し合いを経て。

修子と共に、暮らすことになってから。

この少女の健気さと純粋さに、彼は惹かれていき。

そのために。

本多との仲に、口を挟めなかった。

修子を愛すれば愛するほど、彼は、束縛を恐れるようになり。

自分の気持ちを殺して、ひたすら、彼女の幸せを願うようになった。



それが果たして、正しい愛し方なのか。

彼にはずっと、自信がなかったのだが。

こと、ここに至って。

自分のやり方が、やはり、正しかったのだと彼は思った。

彼の知る限り。

女癖の悪い本多が、これほど入れ込んだ女性は、他にはいなかった。

どれだけの修羅場を迎えようと、決して離婚を口にしなかった彼が、修子のために、それをやってのけたという事実。

自分と違う形ではあるけれど、本多は本多なりに、彼女を愛している。

銘には以前から、そんな確信があった。





この夜。

銘は何度も、修子を求めた。

華奢な体を抱き締め、穏やかに愛し合う中で。

彼は、自分に言い聞かせていた。

これが最後なのだと。

もう、忘れなくてはならないのだと。

例え、まだ彼女に心を残していようと。

終わらせなければいけないのだと。



その、腕の中で。

修子も、同じ思いを抱いていた。

彼の体を、その思いを受け止めている最中。

この夜のことを、自らの体に焼き付けようとしていた。

引き裂かれそうな悲しみに耐え。

溢れそうになる涙を堪えながら。






朝。

窓から差し込む、眩い光のせいで。

彼は、予定より早く目を覚ました。

修子は、彼の腕の中で、ぐっすりと眠っている。

ゆるやかなウェーブを描く、明るい色の髪と、伏せられた長い睫。

瞼にかかる前髪を、指先でどけてやりながら。

彼はそっと、額に口付けする。

そんな優しい気持ちとは裏腹に、彼の心は重かった。

彩への後ろめたさと、修子への後ろめたさ。

その二つが、交互に襲ってくる。


(あの人は、どうしているのだろう。…今頃、一人で目覚めているだろうか)



恋人を胸に抱きながら、他の女に思いを馳せている自分を、彼はどうしても許すことが出来ない。

それなのに。

彩のことを思うたび、胸は熱くなる。

その熱さと、最早留めることの出来ない思いを。

そして、修子への、絶ち難い未練を。

彼は、次第に持て余しつつあった。



晴れ渡る空を、流れていく雲をぼんやりと目で追いながら。

彼は、何度も自問する。

自分がしようとしていることは、やはり、間違っているのではないか。

自分は、どうかしてしまったのではないか ――



「…起きたの?」


その声で。

銘は、はっと我に返った。

十九歳の恋人は、彼を引き寄せて、唇を重ねてくる。

その、柔らかな感触に。

彼は今にも、負けてしまいそうになる。



ひとしきり、朝の接吻を済ませたあと。

修子は、訊いてくる。


「今日は、どうしようか」


「そんなに時間ないだろう?」


「そうだね。遠くへは行けないかな」


「ここで、ずっとのんびりしてる?」


「それもいいけど…そうだ。ファクトリーでも行ってみる?」


「札幌ファクトリー?」


「そう。あそこのアトリウム、好きなんだ」


「了解。じゃ、そうしようか」




それから。

彼女は、一緒に風呂に入ろうと提案してきた。

ユニット・バスなので、そう広くはないけれど。

交互にシャワーを使いながら、何とか体が洗える感じだ。


「まともな湯船に浸かるのは、久し振りだな」


バスタブに深々と体を沈め、銘がそう言うと。

修子は、くすくす笑った。


「銘さんとこ、シャワーしかないもんね」


「でも、俺が馨さんに世話になり始めた頃は、銭湯に通ってたんだよ」


「へぇ、そうなの?」


「馨さんがわざわざ、奥を改装してくれて。俺の部屋と、シャワー・ルームを作ってくれたんだ」


「あ、それで、あそこだけ内装が綺麗なんだね」


「そう。修がいた部屋も、元々はレコード置き場だっただろう?」


「うん。狭かったけど、凄く落ち着いたな。押し入れの中の隠れ家みたいで」


懐かしそうに、目を細める彼女を見ているうちに。

彼は、つい、こんなことを言ってしまった。


「…修」


「うん?」


「何かあったら、いつでも戻っておいで」


「……」


「修の部屋は、あのままにしてあるから」


「…うん」


「誰か雇うつもりもないし。店の権利も、何れ馨さんから譲って貰うつもりだし」


「……」


「帰る場所はあるから。心配しなくてもいい」


「…判った」


修子は俯いたまま、彼の両手を握ってくる。

彼女の額に額をつけ、銘は笑った。


「…じゃあ、修。後ろ向いてくれる?」


「え?」


「背中、流してあげるから」


「はぁい」


彼女は、ボディ・タオルを彼に手渡すと、言われた通りに後ろを向いた。

その、可愛らしい背中を洗ってやると。

修子は、くすぐったそうに身をよじった。


「銘さん、そんなんじゃ駄目。まるで、やった気がしないから」


「あんまり強く擦ると、色素沈着が起きるんだぞ」


「それにしても、優し過ぎるって。もっと力入れて」


「はいはい」


「あ、そう。そのくらい。上手上手」


「全く、馬鹿にして」


「馬鹿になんかしてないよ」


「どうだか」


「あ、次、やってあげるね。交代しようよ」


そんな、他愛もない会話を交わしながら。

愛しさばかりが、込み上げてくる。

彼女の健気さや、優しさに触れるたび。

銘は、かねてからの決心が揺らぐのを感じていた。

しかし。

今更、引き返せる筈もない。





十時。

再び、南北線で大通まで出る。

そこから東西線に乗り換え、バスターミナル前で下車。

北に向かって、歩いていくと。

前方から、二人の小学生が現れた。


「あの…」


ピンクのポシェットを提げた可愛らしい女の子が、おずおずと尋ねてくる。


「どうしたの?」


銘は、笑顔を返す。

彼女の視線に合わせ、しゃがみこみながら。


「地下鉄の駅は、どっちですか?」


「ああ、ここを真っ直ぐ行くと、すぐだよ」


「ありがとうございました」


「いえいえ、どういたしまして」


二人揃って、ぴょこんと頭を下げると。

彼も、深々と一礼する。

それを見て。

修子はくすくす笑う。


「可愛いね。姉妹かな?」


「そうみたいだね。お揃いのポシェットだったから」


「銘さん、小さい子にも優しいんだ」


「何言ってるの。俺は、誰にでも優しいよ」


「知ってる。それがいいところで…悪いところでもあるかな」


「え?」


「冗談。ね、渡ろう! 赤になっちゃう」


「あ、うん」


修子に手を引かれ、交差点を渡りながら。

彼は、その言葉が気になって仕方がなかった。



会ったその日。

彩のコロンに、気付かれた時。

彼は、否定も肯定もせず。

それ以降。

修子も、そのことに一切触れはしなかった。

だから。

彼女はもう、覚悟を決めたのだと。

問い詰めたい気持ちを堪えて、この三日間を乗り切ろうとしているのだと。

彼は、そう理解していたものの。

時折過る不安を、彼女への罪悪感を、隠しきれる筈はなかった。

 

 

 

 

 

 

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