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青の旋律  作者: 一宮 集
32/55

第三十二話

意識が戻った時。

明は、ソファーに寝かされていた。

右手には、きっちりと包帯が巻いてあり。

その痛みで、目が覚めたのだった。



ステージの照明はすでに落とされており。

彼は一人、洗いものをしていた。

断続的な水音と、グラスが触れ合う音。

それを聞いているだけで。

酷く、安心させられる。



「…気が付いたか?」


顔を上げもせずに。

銘は、話しかけてくる。


「ほんと、無茶する奴だよな」


「…ごめん」


「まあ、二度と、あの連中と組むことはないだろうね。向こうも願い下げだそうだから」


「……」


「……痛くないか?」


「大丈夫」


「甲じゃなくて良かったよ。大して深い傷じゃないけど。治るまで、しばらくかかるぞ」


彼は、少しだけ顔を向け、笑ってみせた。

その笑顔に。

何故か、胸が痛んだ。


「…銘さん」


「うん?」


「…ごめん、迷惑かけて」


「グラスを割ったことか?」


「……」


「それとも、連中を怒らせたこと?」


「…両方」


「責任取れない喧嘩はするもんじゃないな。一つ、勉強になっただろう?」


最後の一つを洗い終わったのか。

彼は、手を拭きながら、明に歩み寄る。

温かい指先が、彼女の額を撫でた時。

胸に、熱い何かが込み上げてくるのが判った。


「 ―― 銘さん」


「うん」


「あんなの、本当の僕じゃない…」


「…そうだな」


「あんなの、僕の音楽じゃないよ」


「判ってるよ」


「あんなことしたくて、戻って来たんじゃない…」


「気持ちは判るよ。俺も、向こうから帰って来た時、そう思ったから」


「もう…辞めてしまいたいよ。何もかも」


「全く。何言ってんだ。お前がピアノを辞められる訳ないだろう?」


「……」


「このくらいのことでメゲるなよ。お前が辞めたいって言ったって、ピアノはお前を離さないぞ」


「……」


「だから、これまで続けてこられたんだろう?…違うか?」


彼の、優しい言葉に。

知らず、涙がこぼれていく。

その涙に。

銘は、はっとしたようだった。


「…明?」


「…もう、言わないで」


咄嗟に。

彼の服を、右手できつく掴んでいた。

何かを察したかのように、銘は、その体を抱く。


「…どうした?」


「…助けてよ」


「え?」


「銘さん…助けてよ」


「え、何 ―― 」


「もう、どうにかなってしまいそう…」


何故。

自分がそんなことを口走ったのか、判らなかった。

酒のせいか、寂しさのせいか。

こんな風に、誰かを求めたことは、これまでなかった。

そして。

相手が、その思いに応えてくれたことも。



彼の唇が、そっと重なってきた時。

明は、これまでにない安堵を覚えた。

連中が言うように、男を知らない訳ではなかった。

しかし。

あの事件のせいで、自分は、もう誰も受け入れることの出来ない体にされてしまったと思っていた。

それでいて。

実際にこうして、彼を求めた時。

口付けを交わすだけで、充分、心が潤っていくのが判った。



やがて。

銘が軽々と自分を抱き上げ、寝室に連れて行った時も。

何の抵抗も感じなかった。

肌を触れ合わせ、きつく抱き合って。

ただの女に引きずり落とされる感覚と、その歓喜を自覚しつつも。

明は酷く冷静だった。

細い首筋に、少女のような胸に、彼の唇が下りていくのを。

愛おしそうに眺めている自分がいる。

細い裸身の中に、彼の情熱を深々と受け止めながら。

逞しい背を掻き抱く自分の姿が、現実のこととは思えずにいて。

それでも。

彼に求められ、導かれるままに、微かに喘ぎ、身を捩っている自分がいる。

開かれた体の中心を、何度も鋭く突き上げられているうちに。

今まで感じたことのない、痺れるような快感に、彼女は襲われ始める。

怖い、と思った。

落ちていくような、昇っていくような。

意識せずとも、体中に力が漲り、ぴんと張り詰めていくような感覚。

その恐怖に。

体は、心は、自然と反応してしまう。

堪え切れず。

明は、彼の名を呼んだ。


「 ―― …銘さん」


「うん」


「何だか、変な感じ…」


「怖い?」


「うん」


「余計なこと、考えないで」


「……」


「自分の気持ちのいいところだけ、追いかけていけばいい」


そう言うと。

彼は優しく、明の体を抱き締めた。


彼の胸に抱かれ、肌を合わせることで。

ようやく明は、安心することが出来た。

再び繰り返す強いうねりの中で、彼の吐息を耳にしながら、

身悶えしそうな恐怖が湧き起こってくる。

銘に言われた通り。

彼の温もりを感じ、心地良さだけに集中していくと。

未知の力が、体を押し上げてくる。


その瞬間。


銘が、何かを囁いた。

だが。

明の耳にはもう、何も聞こえてはいなかった。

その背をきつく抱き、堪え切れずに声を漏らしたあと。

何度も、体が震えるのが判った。

突き落とされるような恐怖が去ると。

そこからふわりと、地上に舞い戻ってくるような感じがした。

それとほぼ同時に。

銘の唇が、重なってくる。


深く、交わったままの状態で、何度も繰り返す口付けから。

彼の愛情を、痛いほど感じてはいたものの。

明はどうしても、素直に受け止めることが出来なかった。





彼の腕の中で、その心音を聞いている間。

明は次第に、後悔し始めた。

安易に、彼を求めたことを。

一番距離を置いておきたかった人間の前で、醜態を晒したことを。


「 ―― 銘さん」


「うん」


「悪いけど…」


「うん」


「僕は、銘さんに特別な気持ち持ってる訳じゃないから」


「…判ってるよ」


「傷付いた?」


「まさか。慣れてるよ。そう言われるの」


「そうなんだ」


「でも…俺だって、誰とでも寝る訳じゃないよ」


「そうかな」


「うん。今回は初めて…負けてしまったけど」


「負けたって?」


「ミュージシャンとは関係を持たない主義だったんだ」


「へぇ」


「信じてくれないだろうけど」


「別に、疑ってる訳じゃないよ」


彼の胸に残る深い傷痕を、明はそっと指先でなぞってみる。


「…銘さん、僕のこと好き?」


「野暮なこと訊くなよ。嫌いなら抱けないだろう?」


「嫌いじゃないんだ」


「放っておけるか、こんな危なっかしい奴」


彼の手が、乱暴に頭を撫でてくる。

それを嬉しく思いながらも。

明は、心に蓋をした。

気持ちまで、渡してしまってはいけないと。

何故か、そう思ったのだ。






(あれが多分…最初で最後になるんだろうな)


流れていく風景を眺めながら、明は思った。

その僅か三日後。

彼は修子と出会い、人知れず、彼女に思いを寄せるようになったから。



修子のことは、嫌いではなかった。

それと、彩のことも。

ただ。

自分を抱いたように、銘が修子を抱いている場面を。

或いは、彩を抱いている場面を。

想像することすら、堪えられないと感じていた。

だから。

あんなことを言ってしまったのかもしれないと、明は思った。

そして。

そんな自分の気持ちが判らなくなっていた。



あの夜のことを。

秘密にしようと言ったのも、これっきりにしようと言ったのも自分からだった。

それなのに。

何故かまだ、引きずっている自分がいる。

銘のことを、好きなのか嫌いなのか判らない自分がいる。


「何や、随分大人しいな?」


再び、坂口が訊く。


「好きな男でも、出来たんか?」


相変わらずの、軽い口調に。

彼女は少しだけ、口元をほころばせる。


「だと、いいんだけどね」


そう言ってから。

今の答えが、果たして正しかったのかどうか。

もう一度、考えてみたものの。

明にはやはり、判らなかった。

 

 

 

 

 

 

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