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青の旋律  作者: 一宮 集
31/55

第三十一話

「なんや、明。えらい大人しいな」


「そんなことないよ」


「悪いもんでも食うたんとちゃう?」


「何言ってんの。坂口さんと一緒にしないで欲しいな」


そう言って、笑ってみせたものの。

明はいつになく、気が塞ぐのを感じていた。


(どうして、あんなこと言ってしまったんだろう。よりによって、あの人に)


さっき。

彩と交わした会話が、鮮やかに蘇る。

誰にも話さないと約束した筈なのに。

どうしてああも簡単に、銘とのことを話してしまったのだろう。

自分らしくない、と、明は思った。

嫌でも、溜息が出る。



首都高は、相変わらずの渋滞。

真っ暗な空から落ちてくる陰気な雨を、彼女はしばらくの間、無言で眺めていた。


「…あのさ、坂口さん」


「ん」


「誰かに嫉妬するって、どういう感じ?」


「どういう感じって?」


「苛々するとか、癪に障るとか、そんな感じ?」


「いや、まあ、人によるんやろうけど。妙に腹立ったり、意地悪してやりたなったり」


「それで?」


「相手にダメージ与えて、自分が何とか優越的な場所へ立ちたい思ったり」


「なるほど」


「でも、岸田秀が言うとったな。嫉妬いうのは、相手に対する尊敬の念がないと成立せえへんって」


「うんうん」


「どうでもええ奴やと、最初から勝負にならんやろ? 敵わん部分があるからこそ、嫉妬になるんやて」


「へえ」


「…って、何や、明。そういう目にでも()うてんの?」


「いや、そうじゃないけど。ちょっと訊いてみたかっただけ」


怪訝な顔をしている坂口から目を逸らし、明は再び車窓に目をやった。

ようやく、気持ちの整理がついたような気がしたからだ。


(僕の時とは違い、銘さんは彼女に本気になっている。だからか…)


窓に映る憂い顔は、奇妙に歪んでいて、とても自分のものとは思えなかった。

その向こうに透過するヘッド・ライトに目を細めながら。

あの夜も、こんな雨だったなと、明は思った。






丁度、三年前。

ある事件をきっかけに、明はニューヨークから日本へ戻ることになり。

そこで、日本式コマーシャリズムの洗礼を受けることになった。


大手のレーベルと契約が決まったあと。

彼等が要求したのは、彼女の美貌を前面に出してのジャケット撮影。

それと、有名ミュージシャンとの共演。

明は当然、これを拒絶した。

自分がやっているのは音楽であって、演奏者自身の映像など関係ないだろうと。

さらに。

共演者のネーム・バリューではなく、自分自身の音楽を売りにしたいと。



明がそう異議を唱えると。

担当者は、即座に激怒した。

売れるCDを出したいなら、黙って言われた通りにしろと。

綺麗なねえちゃんのジャケットなら、日本人は皆、喜んで買うのだと。

中身なんかどうでもいい。

演奏が良かろうが悪かろうが、そんなことは関係ないと。

イメージあるのみだと。


無造作に組んだ脚を、明は盛んに動かしていた。

こんな場所にいることさえ、汚らわしいと思った。

隣席の坂口が、必死に目配せするものの。

怒りは、収まりそうになかった。


「じゃあ、僕には無理ですね。他を当たって下さい」


「何言ってんだ。最初からそういう条件で、うちと契約したんだろう?」


「僕はミュージシャンです。体が売りのタレントじゃあるまいし、そんなこと出来るもんか」


この時点で。

明はついに、席を蹴って立ち上がり。

契約はご破算となった。




帰りの車の中で。

坂口はひとしきり説教した。

日本には、日本のやり方があるのだと。

しかし彼女は、聞く耳すら持たない。


「あんなぁ、明、頼むわ。そんな我儘言うてたら、何処でも使ってくれへんで」


「いいよ、別に。それで結構。何が悲しくて、あんな連中に頭下げなきゃならないの?」


坂口はおろおろしたけれど。

明は、どうしても納得がいかなかった。

自分が売れるためなら、手段は選ばないというやり方に。

何より。

坂口が席を外した、ほんの僅かな隙に。

自分と寝ろと、遠回しに言われたことが気に食わなかった。

娼婦じゃあるまいし、と、明は思った。

体を売ってまで、CDなど出したくはなかった。




その後。

自分が正しいと思う道で行くしかないと、明は坂口を説得し。

レーベルとの専属契約に頼ることなく、フリーのミュージシャンとして活動することに決めた。


しかし、そこにも問題はあった。

聴衆は、ネーム・バリューでしか集まらない。

ニューヨークでデビューした頃は、新進気鋭の新人と持て囃されていた明だが、日本ではまだ無名同然だった。

そこで。

坂口は、あらゆるコネを駆使して、方々に頭を下げ、そこそこのミュージシャンを集めては、破格のギャラと待遇を約束して、明と組ませた。

それに関しては。

さすがの彼女も、口答え出来る立場ではなかったのである。




しかし。

その夜、"Riot"での演奏は、散々だった。

年寄り連中のいい加減なサポートと、やる気のない態度。

彼等の出す舐めきった音に、明はすっかり萎えていた。

やり手と言われる坂口が、ありとあらゆるつてを頼って、自分のためにかき集めてくれたメンバーではあったけれど。

この一ヶ月間、連中のために、どれほどのストレスを蒙ったことか。

女のお遊びには付き合えないよなと陰口を叩かれ、ギャラが安い、待遇が悪いと文句を付けられ。

それでも。

酷いプレイの割には、連中の名前だけで客は来る。

それが、明には甚だ納得がいかなかった。

自分の実力を引き出してくれるどころか、足を引っ張ろうとするメンバーに、彼女は本気で腹を立てていたのだが。

自分に合ったメンバーと組ませて欲しいと訴えても、(こら)えてくれと頭を下げられるばかり。

出口が見えない演奏を、何度繰り返しても。

納得のいくものに、なる訳がない。




Gigが終わったあと。

形ばかりの打ち上げが始まる。

しかし。

音楽の話など、出たことがない。

博打と女、金と他人の悪口ばかりが続く。

日本のジャズの黄金期を支えたと言われるジャズマンとは、到底思えなかった。

中でも。

女好きで名高い、ベースの金田は別格だった。

明を無理矢理隣に座らせ、ことあるごとに触ろうとする。

さらに。

女なら黙ってても酒を注ぐもんだと説教された時。

明の忍耐は、限界に差しかかりつつあった。


(辛抱しぃ、明。でないと、演奏する場所すら確保出来んようになるで)


坂口の声が、何度も思い出されて。

自分のために、下げなくてもいい頭を下げ。

無能と罵られ。

必死に、マネージメントを務めている彼に、これ以上迷惑をかけたくなかった。

自分さえ我慢していれば。

そう思って、堪えてはいたものの。

酔いの回った金田は、ますます執拗に、明を求めてきた。

メンバーも、同じ席にいると言うのに、ただ、困惑する彼女をにやにやして見ているだけ。



抱き寄せられ、無理矢理キスされそうになった時。

最後の糸が、ぷつりと切れる音がした。


「止めて下さいよ!」


堪りかねて叫ぶと。

金田は意外そうな顔をして言う。


「何言ってんだ。散々、こういうことしてきたんだろう?」


「そうだそうだ。指ぐらい入れさせてやれよ」


「生娘じゃあるまいし」


その言葉に。

明は、耳を疑った。

そして、絶望した。

これが、日本のミュージシャンの現実なのか。

この国では、こんな連中がもてはやされているのか。



連日のように通うスタジオでのバイトや、初心者へのレッスン。

週に何度かのリハーサルとライブ。

そのたびの心労に、明は疲れ果てていた。

こんなことをするために、帰って来たんじゃない。

何度もそう叫びそうになりながら、辛うじて堪えて来たのは。

ピアノが弾きたかったから、演奏がしたかったからだった。

その思いも。

連中の暴挙の前で、ついに、立ち消えようとしていた。


何もかもが、嫌になっていた。

音楽も、ピアノも。

下げたくもない頭を下げ、人の言いなりになって。

好きでもない相手と、当たり障りのない演奏をして。

演奏が終われば、ホステスまがいのことまでさせられて。


こんなことなら。

もう、全て失ってしまってもいい。

二度と、弾けなくなってしまえばいい。

そう、思った時。

勝手に、体が動いていた。



派手に、ガラスが割れる音がして。

その次の瞬間。

砕けたグラスに、右手を叩き付けている自分がいた。

不思議と。

痛みは、感じなかった。


再度、振り上げた手を。

誰かが掴んだような気がした。

それから。

気付くと、背後から、銘に抱き抱えられていた。



おぼろげな意識の中で。

彼が、声を荒げているのを聞いた。

今まで一度も聞いたことのない、激しい口調で。

そして。

記憶は、そこで一度途絶えた。

 

 

 

 

 

 

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