第三十話
小樽から札幌へ戻る時。
高速バスのターミナルからずっと、二人は手を繋いでいた。
緑なす山を、バスが駆け抜けている間。
修子は彼に寄りかかり、そっと目を閉じていた。
眠っている訳ではなかった。
ただ、その温もりを感じていたかった。
そして。
記憶に焼き付けようとしていた。
何れ失われてしまう、この日の彼の姿を。
再び南北線に乗り、中島公園駅へ向かう。
繁華街からは、大分離れた場所だ。
修子が何処へ行こうとしているのか、彼には見当もつかなかった。
しばらく歩いているうちに。
目の前には、YAMAHAのビルが見えてきた。
彼女の目的地は、どうやら、ここのようだ。
「…修」
「うん?」
「まさか、グランドとか言わないよね?」
念のため、彼は訊いてみた。
修子はくすくす笑って、彼の手を引く。
「そんなの、うちのアパートに置けないでしょう」
「それはそうだけど」
「心配しないで。大きいものでも、高価なものでもないから」
エントランスを潜ると、彼女は迷わず、小物を売っているフロアへ向かう。
それから。
銘に向かって、微笑んだ。
「これが欲しかったの」
修子が指差したのは、長い鎖のついた、小さな銀色の音叉だった。
値段だって、1000円ぐらいのものだ。
予想が外れた銘は、拍子抜けした。
「え? 本当にこれで…」
そう言いかけてから。
彼ははっとして、口をつぐんだ。
何故修子がそれを選んだのか、その理由に思い当たったからだ。
「…判ったよ」
彼は、その音叉を二つ手にした。
それから、修子に微笑んで見せる。
「どうせなら、お揃いにしよう」
レジに向かう銘の後ろ姿を、彼女は黙って見詰めていた。
昔から、彼にはそういう部分があった。
何も言わないのに、こちらの思いを察してくれるようなところが。
自分と彼とは、どうしてこうも響き合うのだろう。
どうしてこうも、通じ合えるのだろう。
そう思った途端。
涙が、溢れそうになる。
国道沿いを歩いて、すすきのへ戻る時にはもう、日はすっかり落ちていた。
賑やかな道則を、二人はただ、手を繋いで歩いた。
何も言わず、瞳を合わせることもなく。
それでも。
お互いの想いだけは、通い合っていた。
繋いだ手を通して。
その温もりを通して。
明日の今頃はもう、彼は東京へ戻ってしまう。
自分の知らない、誰かの元へ行ってしまう。
幾ら考えないようにしても、そのことが、頭から離れなかった。
この手はもう、自分のものではないのだと。
二度と、彼を取り戻すことは出来ないのだと。
胸に込み上げてくる悲痛な叫びを、彼女は必死に振り払おうとした。
そして。
銘もまた、同じ思いだった。
本多に会うことで、彼女は、彼の元へ戻る決心をしたのだろう。
そしてそれは、自分のせいだと。
実際に修子に会い、想像以上に心が揺らぐのを感じながらも、
彼は、決して引き返せないと思っていた。
東京で待つ、彩のために。
そして、修子の将来のために。
「…銘さん」
「うん」
「お腹、空かない?」
「言われてみれば、もう夕飯時だね。修は?」
「ちょっとだけ」
「何処か、いいところある?」
「ビヤホールみたいなところでいい?」
「いいよ。少し、飲んで帰ろうか」
「うん」
修子は微笑んで、彼の手を引く。
それから、ロビンソン百貨店の8Fにあるレストランへ向かう。
案内されたのは、駅前通りの夜景を見渡せる、カウンター席だった。
生ビールで乾杯したあと、軽くつまめるものを頼む。
酔いが回るにつれ。
彼女は、いろいろなことを彼に打ち明け始めた。
これまで、銘には絶対に言わなかったことを。
「わたしね、ずっと、サークルの先輩に口説かれてて…」
「え?」
「もう、どうしても嫌になって…だから、銘さんに電話したりしたの」
「ああ、あの、夜中に電話寄越した時?」
「そう。銘さんと婚約してるって言っても、全然本気にしてくれなかったから。それで…」
「そういうことだったのか」
彼は、あの夜の自分の態度を思い出していた。
真夜中にかかってきた一方的な電話に、酷く腹を立てたことを。
しかし。
彼女には、彼女なりの理由があったのだと。
この時、彼は初めて知ったのだ。
「あと、バイト先とか講義中は、携帯厳禁で。なかなか、かけれなかったの」
サラダを取り分けながら、彼女は俯く。
長い睫を、そっと伏せるようにして。
「…ごめんね。何だか、言い訳ばっかり。もう、どうしようもないのにね」
そう言って、懸命に笑顔を見せようとする。
「はい。お野菜も取らないと」
「ありがとう」
「食事には気を付けてね。銘さん、結構好き嫌いあるから」
「そうでもないよ」
「嘘ばっかり」
「ほんとだって」
「じゃあ、この牡蠣入れてもいい?」
「それは駄目」
「ほら、あるじゃない」
「牡蠣は駄目だって。フランスで中って以来、食えないんだ」
「へぇ、本場なのに?」
「ツアー中だったから、体力が落ちてたんだろう」
「勿体ないな。屋台なんかで食べられるんでしょう?」
「そう。生牡蠣は、フランスの消費量がトップだって話だよ」
何気なく、そんな話を振った時。
突然。
彼女は、声のトーンを落とした。
それから。
カウンターの下で、銘の手をそっと握ってくる。
「 ―― 銘さん」
「うん」
「もし、もしね、わたしが…」
その時。
背後の学生が歓声を上げた。
そのために、彼女の言葉は途中でかき消されてしまった。
彼は、修子の肩を抱くようにして、顔を近付ける。
「ごめん。聞こえなかった。何?」
「…、辞めたら ―― 」
「え?」
「…大学、辞めたら怒る?」
彼は、耳を疑った。
言葉を失ったまま、ただぼんやりと、彼女を見詰める。
「…どういう、こと?」
「ごめんなさい、何でもない」
彼女は急に、体を離した。
にこやかに笑いながら。
「気にしないで。何言ってるんだろう、わたし…」
彼女は、握った手を離して立ち上がる。
動揺を押し隠すようにして。
「ごめん、ちょっとトイレ行ってくるね」
「うん」
そう、答えながら。
彼はたちまち、不安に陥った。
戸惑いながらも、彼は考えた。
修子が言おうとしていた言葉の続きを。
気を落ち着かせようと、煙草を探っている時。
彼は、携帯の存在に気が付いた。
見ると、不在着信が12件。
全て、彩からだった。
修子といる間も、彼は、彩へ何度か電話を入れていた。
しかし。
彼女の携帯は、いつも留守電になっていた。
そのたびに彼は、諦めて電話を切っていたのだ。
「ごめんね、待たせて」
修子が戻ってきた時。
彼は、平静を装いながら、立ち上がる。
「何処だった?」
「あ、あそこのドア」
「判った」
微笑みつつ、席をあとにしたものの。
胸に、微かな痛みが走った。
個室の中から、彩の携帯にかけ直す。
三度目のコールで、彼女が出た。
「銘さん?」
「あ、ごめん。気付かなくて」
「ううん。こっちこそ、ごめんなさい。何度もかけて」
「なかなか、繋がらなかったから」
「今日、パーティーだったの。槙村の代わりに招待されたから」
「あ、そうだったんだ。道理で」
「そう。そこで…意外な人に会ったんだけど」
「誰に?」
「…明さん」
「明に? へえ、バンドが入ってたんだ」
「そう。それで ―― 」
彼女は何故か、言い淀む。
「明さんから、聞いたんだけど…」
「何を?」
「……」
「あいつ、また何か余計なことを?」
彩は、答えない。
そのために。
彼は一層、そのことが気になり始めた。
「…何て言ってたの?」
「……」
「彩さん?」
「…ごめんなさい。何でもないの。ただ、あなたが札幌に行ってるって」
「本当にそれだけ?」
「あと…お客さんとは友達になれないって言われた」
「ああ、それはあいつのポリシーだからね。気にすることないよ」
「それだけ。ごめんなさい、長くなったでしょう?」
「また、あとでかけるよ」
「もう、遅いから。気を遣わないで。修子さんと一緒にいてあげて」
「…判った」
「おやすみ、銘さん。着いたら電話して」
「うん、そうするよ。おやすみ、彩さん」
そう言って電話を切ったあとも。
何やら、腑に落ちないものを感じていた。
修子といい、彩といい。
何か自分に、隠しごとをしているような気がしてならなかった。