第三話
いつの間にか。
彼は、広大な砂浜にいた。
肌を焼き尽くそうとする、強烈な日差しの中。
目を細め、思わず手を翳すと。
真っ白な砂の向こうに、何かがはためいているのが見えた。
その彼方には。
恐ろしく深い青色を湛えた、穏やかな海が広がっている。
足を取られながら、海へ向かって歩いていくと。
そこには、無数の杭が打たれている。
彼の背丈を超える高さの、その杭と杭との間に張られたロープにはそれぞれ、
白い大きな布がかけられている。
銘は、恐る恐るそれに触れてみる。
薄く艶やかなその感触は、絹のように思えた。
ふと、指先を見ると。
その布は、見る間に色を変えていく。
眩いまでの純白から、滴るような青へ。
彼は驚いて、得体の知れない布から離れた。
砂に埋まる足元を見ると、そこもすでに、白から群青へと変わりつつある。
彼には、自分が何故こんな場所にいるのかが判らなかった。
そして今、自分に何が起きているのか、想像もつかなかった。
(どういうことだろう、これは)
訝りつつ、顔を上げた時。
翻る大量の白布の向こうに、明らかな人影を見た。
咄嗟に。
彼は、走り出す。
相手は慣れた様子で、砂を蹴って走っていく。
その白い服の裾を、彼の目は辛うじて捉えている。
「ちょっと、待って…」
深い砂に惑わされ、縺れる足に苛立ちながらも、彼は追い縋る。
その体に、指先に触れるごとに、その布はじわりと変色していく。
しかし、彼は構わず、白布を掻い潜り、砂を蹴上げて、ひたすらに影を追った。
その相手が、何かを知っているような気がしたからだ。
何とか、彼女と話をしなければ。
ここから抜け出す方法を、訊かなければ。
そう思ってから。
彼は、はっとした。
―― 彼女だって?
どうしてあれが、女性だと判るんだ?
その時。
黒い人影は、不意に立ち止まる。
薄絹の向こうに、細い手首が見えた。
ついに彼は、追いついた。
息を弾ませながら、相手を捕らえようとする。
迷わず彼は、彼女を抱き締めた。
その、目に痛いほどの純白の布越しに。
しかし。
そこに、彼女の姿はなかった。
白い布は見る間に、鮮やかな赤に染まっていく。
まるで、血飛沫を浴びたかのように。
次の瞬間。
彼は、跳ね起きていた。
自分のベッドの上で。
肩で息をしながら、額の汗を拭う。
今しがたの夢は、まだ生々しく、その身を貫いている。
気を取り直して、シャワーを浴びている間も。
恐怖のような、安堵のような。
これまで感じたことのない、不可思議な感触があった。
(あんな妙な夢を見るなんて)
彼は、自分の手をじっと見詰める。
そこには当然ながら、どんな色も残されてはいなかった。
体を洗い終え、蛇口を捻りながら、彼は考えた。
多分。
あの、青い絵の具のせいだろうと。
真新しいシャツに袖を通したあと、銘は店へと向かった。
地下にある自室からそこまでは、僅かな距離だ。
昨夜の淀んだ空気を追い払うように、排気口を開け、換気扇を回す。
どうしてもこの時期は、湿気が溜まりやすくなる。
湯を沸かしながら、彼は、カウンターの上の絵の具を手に取った。
翻る白い布が、青に染まっていく時の光景が、嫌でも蘇ってくる。
思わず溜息をつき、煙草に火を点けた時。
店の電話が鳴った。
やや緊張した気分で、銘は、その電話を取った。
「はい、Riotです」
「あ、早くにすみません。わたし、昨日の…」
「ああ、彩さんですね。今、開けますから」
彼は手短に言うと、電話を切って階段を上がる。
古びたシャッターを押し開けると、目の前に、携帯を手にした彼女の姿があった。
薄いピンクのカットソーに、細身のジーンズ。
華奢な肩には、真っ赤なショルダー・バッグ。
日の当たる場所で見る彼女の姿は、銘が想像していたより、ずっと若かった。
「まだ、開店前ですよね?」
申し訳なさそうに、彼女は言う。
澄み切った瞳が、無心に彼を見上げている。
「あ、いえ。大丈夫です」
「すみません。もっと遅い時間に来るつもりだったんですが、予定が入っちゃって…」
座っていた時は判らなかったのだが、彼女はかなり小柄だった。
長身の彼と向かい合うと。
可愛らしい肢体は、その腕の中に簡単に収まってしまいそうだった。
彼女と初めて視線を合わせた時。
彼は、自分がいつになく動揺していることに気付いていた。
しかし。
その心の揺れを振りきるように、彼は何とか笑顔を返した。
「いえ、構いませんよ。どうぞ」
彼のあとに続いて、彼女は階段を下りてくる。
カウンターの椅子を勧めてから。
彼はあらためて、彼女に絵の具を手渡した。
「え?」
付けられたメモを見て、彼女は驚いたようだった。
「どうして、わたしの名前をご存知なんですか?」
「絵を描く人みたいだから。多分そうじゃないかなと思って。当たりましたか?」
「ええ。びっくりしました」
彩はそう言って、にっこり笑った。
「良かった。違ったらどうしようかと」
その前にコーヒーカップを置きながら、彼は肩を竦めた。
軽く会釈して、彼女はそれに口を付けた。
明かり取りに穿たれた窓から差し込む光の中に、白い湯気が立ち昇る。
それを眺めつつ。
彼は、今朝方の不思議な夢を思い出していた。
「…あの、彩さん」
「はい」
「ひょっとして、シルクスクリーンですか? 得意なのは」
彼女は驚いて、顔を上げた。
「ええ。でも、どうしてそれを?」
彼は余程、今朝の夢のことを説明しようかと思った。
あの、原色に彩られた不思議な渚のことを。
しかし。
結局、彼は諦めた。
初対面同様の彼女に、変な奴だと思われたくなかったからだ。
「いや、何となくです」
「勘が鋭いんですね」
「いえ、別にそういう訳じゃ…」
「ここ数年は、そればっかりですね。油彩や水彩ばかり描いてた時期もあったんですが」
そう言うと。
彼女は視線を外し、顔の前で指を組む。
それから、遠くを見詰めるように微笑んだ。
薄い茶色を湛えた髪が、細い肩にさらりと落ちかかる。
その姿は。
彼の胸に、微かな波紋を広げていた。
言葉が途切れたあとに、奇妙な沈黙が横たわる。
通りの雑踏と、タクシーのクラクションを除けば。
彼はその静寂に堪えかねて、オーディオのスイッチを入れる。
たまたま入っていたのは、ジョン・コルトレーンの"Ballads"。
少しだけ、緊張が薄れたような気がした。
珈琲を飲み終わると、彼女はバッグを開け、財布を取り出した。
「お幾らですか?」
「あ、いいですよ。まだ、営業時間前だし」
「でも…」
「良かったらまた、ライブに来て下さい。連中も喜びますから」
「いいんですか?」
「勿論。それに、明は、滅多にリクエストを受けないんです」
「え、そうなんですか?」
「ええ、なのでほんとは、お断りしてるんです。たまたま、あなたの時だけは機嫌が良くて」
「知りませんでした。前も、お願いしたことがあったから」
「3年前ですよね? 確か、婚約者の方といらしてた時」
何気なく、そう言った途端。
彼女の表情が、俄かに曇った。
その変化を読み取った時。
銘は自分が、彼女の中に潜む、何らかの記憶を呼び起こしてしまったことに気付いた。
「あ、すみません。多分、違う方だと…」
「…覚えてらしたんですか」
彼は、言葉に詰まった。
それから、仕方なく頷いた。
「リクエストにお応えしたのも、チップを戴いたのも俺ですから」
「そう。そうですよね。覚えてらっしゃいますよね。あの人、いつも強引だから」
彼女は、財布をバッグにしまいながら、早口で答えた。
「わたしはいいって言うのに、確か、無理にお願いしたんですよね」
「いや、そんな。無理だなんて…」
「いつもそうなんです。自分で決めて、自分で行動して。わたしなんか、いなくても一緒…」
無理に笑顔を作りながら、彩はスツールから下りた。
「今、彼、パリにいます。もう、帰ってくることはないんじゃないかな」
「…彩さん?」
思わず、彼女の名を口にした。
それから慌てて、カウンターの外へ出る。
「すみません、俺、何か余計なことを…」
「いえ、郁崎さんのせいじゃありませんから」
「でも…」
「気にしないで下さい。ほんとに」
彼女は束の間微笑みつつも、すぐに身を翻した。
それから、ドアの向こうに早足で去っていく。
まるで、夢の中の黒い影のように。
その後姿を見送りながら。
彼は、深い溜息をついた。
「ああ、やっちまった…」
そう呟きながら、カップを下げ。
勢いよく湯を使いながら、その縁に残された赤い口紅を落とす。
そう思いつつも。
何かが、引っ掛かっていた。
彼女が言いかけた何かが。
言わなかった何かが。
手を拭き、スツールに一人腰を下ろしてから。
彼はしばらく、そのことについて考えていた。
いつものように明が、店のドアを押し開ける時間まで。