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青の旋律  作者: 一宮 集
29/55

第二十九話

演奏を終えた時。

聴衆から、拍手が巻き起こる。

目を開けた銘は、自分が多くの人々に囲まれていることに気付いて驚いた。

それから。

青年が、感激に打ち震えている姿が、目に飛び込んできた。


「 Maravilloso!(素晴らしかったよ!)」


今度は、彼の方から握手を求めてくる。


「Soy Jose Carlos Fernandez. Mucho gusto. Como se llama Usted?(僕はホセ・カルロス・フェルナンデスだよ。あなたは?)」


「Encantado, Jose. Me llamo Mei. Mei Ikuzaki(宜しく、ホセ。郁崎銘だよ)」


「No es posible!(嘘だろう?)」


その名前を聞いて。

青年は、飛び上がらんばかりだった。


「Que buena bajesta! Tiene arte. Me alegro de verte!(凄いベーシストだと思った! もう芸術の域ですよ。会えて嬉しいです!)」


銘は、笑顔でそれに応える。


「Muchas gracias. Es muy bien, atractivo(ありがとう。凄くいい楽器だね)」


「De nada. Me muero por su musica!(どういたしまして。僕はあなたのファンなんですよ!)」



二人が楽しそうに話している姿を、修子は離れた位置から眺めていた。

自分の知らない銘が、そこにはいた。

音楽家としての彼は、修子にとってあまりに眩く、遠い存在のように思えた。



しかし。

それは、束の間だった。


「修! ごめん!」


青年と別れると、彼はすぐに走ってきた。


「楽器みたら、つい、弾きたくなって。ほったらかしにしてしまったね」


「ううん。それはいいんだけど…」


修子が振り返ると。

青年はにこやかに手を振って、何か叫んでいた。

銘も、笑顔で手を振り返す。


「何て言ってたの?」


「"素敵な奥さんに宜しく"だって。調子のいい奴だよ」


そう言うと。

彼は微笑みながら、修子の手を握ってくる。


「さ、行こうか。遅くなっちゃったな」





暖かい日差しに包まれ、二人、並んで歩いている間。

修子は、明が以前言っていた言葉を思い出していた。


(銘さんはさ、ちょっと距離を置いて後ろを歩く癖があるでしょう? でも、それって、何かあった時、すぐに手を出せる位置なんだよね。本多さんは、ずかずか先を行って、振り返って待ってる感じ。圭介は、僕が転べば一緒に転ぶようなところがある。そう思わない?)


確かにそうかもしれないと、修子は思っていた。

今、一緒に歩いているのが本多なら、彼は自分のことに夢中になって、先を行ってしまうだろうと。

自分と歩く時、銘はいつもやや後ろにいて、エスコートするようにそっと腕を回してくる。

それが、いつの間にか当たり前になっていたのだ。




「あ、修。ヴェネツィア美術館行ってみようよ」


「いいけど。あそこって、高いものしかないんだよね」


「まあ、そう言わず。どのみちこの辺は、ガラスばっかりでしょう?」


「どうせなら、北一硝子の方が見るとこあるよ」


「そうか。じゃ、そっちにしよう」


見上げるたびに、銘は必ず微笑み返してくる。

周囲にどれほど若い女性がいても、自分だけを見詰めてくれる。

その優しさが、嬉しかった。

同時に、辛かった。

もう二度と、彼とこんな時間を持てなくなるのかと思うと、悲しみに押し潰されそうになる。

しかし。

彼女はその辛さに、必死に堪えていた。

そして、何とかこの二日間を乗り切ろうと思っていた。




通り沿いにある、小さなイタリアン・レストランに入ってから。

修子は、あらためて訊いてみた。


「銘さん、スペイン語出来るんだ」


「簡単な話ならね」


「へえ。知らなかった」


「聞いての通り、いい加減だけど。正式に習った訳じゃないから」


前菜のスモーク・サーモンを取り分けながら、彼は笑った。


「英語が話せるのは知ってたけど」


「俺が通ってた先生のところには、中南米から来た奴が多くて。そこで覚えたんだ」


「ふぅん。タンゴも習ってたの?」


「そう。何でもやらされた。クラシック、ジャズ、ロカビリーまで一通り。あと、知り合いの店にバンドネオンが入ってて。そこでバイトしてたし」


「凄いな。銘さんって」


「少しは見直した?」


「いつも、敵わないって思ってる」


若いウェイターが、ペスカトーレの皿を前に置くと。

修子はそれを取り分けて、銘に渡す。


「ありがとう」


「どういたしまして」


「正しい日本語講座だな、まるで」


そう言って。

二人は、顔を見合わせて笑った。


「…これから、どうする?」


修子が訊いてくる。


「何処かまだ、見たいところはある?」


「ううん、もう一通り見たから」


「じゃ、もう少しぶらぶらして。それから札幌戻って、修の欲しいものを買いに行こうか」


「うん」


「予算が判らないから。先に銀行寄って…」


「あ、大丈夫。そんなに高いものじゃないから」


修子は、慌てて首を振る。


「そうなの?」


「うん。でも、銘さんに買って欲しいの」


「そうか。でも何だか、ほっとしたような、複雑な感じだな」


彼はそう言って、くすくす笑った。



出来ることなら。

このささやかな時間が、いつまでも続いて欲しい。

銘といる間。

修子はずっと、そう思っていた。

今なお、胸の奥深くへ残る、彼への想いを封じ込めながら。

 

 

 

 

 

 

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