第二十八話
札幌で迎えた、二日目の朝。
空は、相変わらず晴れていた。
明るい日差しの中、トーストを齧りながら、銘は、新聞に目を通している。
「へぇ。ビル・スタインバーグのカルテットが来るんだ」
「そう。それ、凄く評判いいみたいね」
珈琲を淹れつつ、修子が答える。
「このメンバーで4500円は安いよ。修、行ってご覧。絶対損はしないから」
「やっぱり? じゃ、今日チケット買っておこうっと」
「何より、バックが凄い。一流揃いだな。エド・ハミルトンがベース、ダグラス・コナーがドラムか。ピアノはショーン・マックウェルだし」
「ベースとドラムは判るけど、ピアノの人だけ聴いたことないの。どんな感じ?」
「若い人だけど、スタイルは結構オーソドックスだよ。俺は好き。修の好みじゃないかな」
「ふぅん。良かった。ますます楽しみ」
「それにしても、ビルが日本に来れるようになるなんて。何だか信じられないよ」
「一緒に演奏したことあるの?」
「そりゃあもう。彼は、マンハッタン・ミュージック・スクールの同期だし」
「え、そうなの?」
「そう。俺が最初に惚れ込んだサックス奏者でね。当時から、滅茶苦茶上手かったよ。でも、なかなかジャズの仕事が見つからなくて。その後、ジュリアード音楽院に進学して。細々とスタジオで食ってるよなんて言ってたのに。そうか、ついに一枚看板になったんだな」
社会面の下に並んだ大きな広告を眺め、彼は、感慨深そうに目を細めている。
その横顔を、彼女は複雑な思いで見詰めていた。
「…ねえ」
「うん」
「前から、思ってたんだけど」
問いかけながら。
修子は、テーブルの上にコーヒーカップを置く。
「何?」
「銘さん…復帰する気持ちはないの?」
「プロとしてってこと?」
「うん…」
彼は、ちょっと考えてから、カップに口をつける。
「したくないって言ったら嘘になるけど。ただ、やる以上は、自分の病気にかこつけて、中途半端なことはしたくないからね。前みたいに、ステージに穴を開けるのも嫌だし」
「うん」
「正直、一時は完全に諦めてた。丁度、修に会ったあたりはね」
「……」
「でも…この前、明と二人で演奏したり、昨日みたいなことがあったりすると。やっぱり、血が騒いでくるよ。俺にはこれしかないって。これしか出来ないんだって」
彼は、テーブルの上で、長い指を組む。
それから、ふと視線を落とす。
「…修とのことを一度白紙に戻したのも、そういうことが頭にあったからだよ。いつまた倒れるか判らない。そんな状態で、家族を持つ自信が、今の俺にはないし。それに…万が一何かあった時、修にこれ以上、悲しい思いさせたくないんだ。我儘かもしれないけれど…また音楽やって、ステージの上で死ねたら本望だよ」
その言葉を。
修子は、胸が潰れる思いで受け止めていた。
(でも ―― 銘さんが別れる決心をしたのは、あの女性のためでもあるんでしょう?)
そう問い詰めたい気持ちを、彼女は堪えていた。
最後の二日間を、つまらない嫉妬や疑惑で台無しにしたくはなかった。
忘れよう。
携帯のことも、顔すら知らない女性のことも。
今はただ、目の前にいる彼だけを見ていよう。
彼女は必死に、そう言い聞かせていた。
南北線で駅まで出て、石狩ライナーで小樽へ向かう。
新しい車両は、山の手線のような横並びの座席だ。
琴似を過ぎると、乗客は誰もいなくなった。
やがて。
海岸沿いに差し掛かり、車窓が海の青に満たされると。
二人は子供のように、並んで窓に見入った。
美しいブルーのグラデーションが、視界一面に広がっている。
ここを通るたび。
誰もが、その色に惹き込まれてしまうのだ。
「ほんと、綺麗。バスでは何回もあるけど、電車で来たのは初めて」
「高校生の頃に一度だけ、小樽の小さなライブハウスで演奏したことがあって」
「それで知ってたの?」
「そう。ウッド・ベース抱えて、電車に乗って。この風景を一度、修に見せたくてね」
そう言って、彼が微笑むと。
修子はそっと、手を握ってくる。
左手の中指にはまだ、あの指輪があった。
銘は、彼女の手を取って、指輪に触れてみる。
かなり痩せたのか、それは、簡単に回るようになっていた。
「…修」
「うん」
「…ごめん。こんなことになって」
「いいの。わたしも悪かったし。だから…謝らないで」
彼の心の揺れに気付いて、修子は、無理に笑顔を作って見せた。
「明日、空港に行くまで、わたし…頑張るから。その気持ち、取っておいてくれる?」
その健気さに。
彼の胸は、鋭く痛んだ。
しかし。
今更、引き返せる訳もない。
頷きながら、銘は、その指に指を絡めて握り締める。
修子も目を伏せたまま、握り返す。
「…修」
「うん」
「何か、欲しいものはない?」
「え?」
「君に、プレゼントしたいんだ」
「いいよ、そんなの…」
「何でもいいよ。最後だから、何かしてあげたいんだ」
「でも…」
「ほんとに。気持ちだから。遠慮しないで」
彼女は、しばらく悩んでいるようだった。
それから、おもむろに口を開く。
「…じゃあ」
「うん」
「札幌に戻ってからでもいい?」
「いいよ」
「銘さんに、買って貰いたいものがあるの。一つだけ」
「判った」
「あと…もう一ついい?」
「いいよ、何でも」
「お金では、買えないものだけど…」
「うん」
そこで。
彼女は一瞬、言い淀む。
それから。
意を決したように、口を開いた。
「言葉だけ、頂戴。嘘でもいいから。わたしのこと ―― 好きだって…」
そう、言いかけた時。
彼女の目から、不意に、涙が溢れた。
それを見て。
彼は、堪え切れずに、修子をきつく抱き締める。
しばらくの間。
二人は黙って、身を裂かれるような辛さに堪えていた。
あの日。
走って、彼女を追いかけた夜。
あの胸の痛みを、彼は思い出していた。
初めて、修子に思いを伝えた時のことを。
それがまさか、こんなことになるなんて。
彼には、信じられなかった。
でも。
もう、どうすることも出来ない。
涙を堪えながら、彼は言う。
「 ―― …好きだよ、修」
彼女が答えようとすると。
銘は、唇を重ねてくる。
束の間の口付けのあと。
彼の声は、掠れていた。
「嘘なんかじゃ、ないからね」
涙を拭いながら、何度も頷く彼女に。
彼はまた、口付けする。
その心は、二つに引き裂かれていた。
修子への未練と、彩への思いに。
でも。
今はもう、どうすることも出来ない。
平日にも関わらず、駅前には観光客の姿があった。
海に向かう坂を下っているうちに、修子は、そっと手を繋いでくる。
その温もりが、慎ましさが愛おしかった。
運河まで出ると、爽やかな海風が吹き抜けてくる。
仲睦まじく歩く二人の姿は、嫌でも目立った。
広い遊歩道には、人が溢れている。
絵を描く老人、売る青年、大道芸人まで。
ストリート・ミュージシャンの姿もあった。
ギターやハーモニカを鳴らす日本人が多い中。
一人だけ、コントラバスを弾いている青年がいた。
浅黒い肌に黒い瞳をした、南米系の若者だ。
彼の前で、銘は、足を止めた。
バッハの"Sarabande from suite No.5"を見事に弾き終えた彼は、遠巻きに眺めている聴衆に向かって、深々とお辞儀をする。
その前で、二人は並んで拍手をした。
青年は、白い歯を見せながら、はにかんだ微笑を浮かべる。
足元に置かれた箱に、チップを入れようとした時。
銘はそこに、小さなアルゼンチン国旗が立ててあることに気付いた。
「Usted tiene buenas habilidades de la musica!(君には、音楽的才能があるね!)」
いきなりそう言うと。
銘は、彼に握手を求めた。
咄嗟のことに驚きながら、青年も笑顔を返す。
「Gracias. Tocas algun instrumento musical?(ありがとう。あなたは何か楽器をやるの?)」
「Si, toco el contorabajo, tambien(ああ。俺も、コントラバスを弾くんだ)」
「No me digas!(え、ほんとに?)」
目を丸くする彼に向かって、畳みかけるように言う。
「Le importa si juego su instrumento?(楽器を触っても構わない?)」
「No, para nada!(ええ、どうぞ!)」
青年の許可を貰ってから。
銘は彼のベースとアルコを借り、演奏を始めた。
曲目は、ピアソラの"Adios Nonino"。
銘が奏でる重厚な弦の音色が、運河沿いの煉瓦倉庫まで穏やかに響き渡る。
行き交う人々も足を止め、彼の演奏に聴き入っているようだった。
目を閉じて、演奏に集中する彼の姿を、その指先を見つめながら。
修子は、胸の奥が俄かに熱くなるのを感じていた。
そして、気付いていた。
彼を、彼の音楽を、自分がどれほど愛しているか。
その優しい調べに包まれながら。
自分にとって、銘は初めから特別な存在なのだと。
かけがえのない相手なのだと。
今更のように、思い知らされたのだった。