第二十七話
「会場、何処だって?」
明が、不機嫌そうに訊いてくる。
「インターナショナル東京。大ホール」
運転席の坂口晴男が、にこやかに答える。
四十二歳になる彼は、明の父の親友で、元々は青のマネージャーだった。
明がニューヨークでデビューしてからは、彼女の専属になったのだ。
ステアリング前にかざした予定表を見ながら、彼は、溜息をつく。
「さすが、有名人同士の結婚披露宴だけあるなぁ。役者や画家、音楽家…どえらい面子が仰山集まりよる」
「客がどんなだろうと、僕には興味もないよ」
「相変わらず、強気やな。お前の好きなセレブの仕事やん」
眼鏡のブリッジを上げながら、坂口はくすくす笑った。
やや太目の体躯を、ダブルのスーツの中に押し込めた姿は、実際の年齢よりかなり若く見える。
見かけ通りの温和な性格でありながら、業界一のやり手としても知られる彼は、決して明を甘やかさず、彼女が嫌がる派手な仕事を、平気で取ってくる。
それが。
明は、前から気に食わないのだ。
「何処がセレブよ。ああいう連中は、成金って言うんだよ」
「はぁ。ほんま、言葉にうるさいやっちゃなぁ。帰国子女の分際で」
「文句ならアナトリィに言ってよ。僕に日本語を仕込んだのは、彼なんだから」
「自分の爺さんに、彼言うな」
「爺さん呼ばわりすると怒るんだもの」
「ま、確かに爺さんって感じはせえへんなぁ。イケメンやし」
「まだ六十二。現役バリバリだよ」
「今、何処に勤めてはるん?」
「慶応と東京外語大。講師だけどね」
「へぇ、格好ええなぁ」
「坂口さんも間違いなく、孫命の爺さんになるね」
「アホ言うな。うちの茉莉はまだ六つや」
「二十年後には二十六だよ。子供の一人や二人いたっておかしくないさ」
そんな話をしながら。
車窓を眺めて、彼女は溜息をつく。
漆黒のスーツに身を包んで。
「…明ぁ」
「何?」
「幾ら裏方でもなぁ…も、ちょい、色っぽい格好してもええんちゃう?」
「冗談。ホステスじゃあるまいし。これで充分」
そう言うと。
明は、坂口の胸ポケットに手を突っ込んだ。
「あ、こら。何すんねん」
「いいじゃん。一本だけ」
「何言うてんねん。これから人前で演奏すんのに、煙草はあかん」
「坂口さんさぁ、僕より胸あんじゃん」
「やめ! 触んな! この変態!!」
彼が必死に抵抗するので、明は、一服するのを諦めた。
悔し紛れに、横目で睨んでやる。
「ふん、ケチ」
「誰が! ケチはお前やん!」
「何でさ」
「煙草ぐらい、自分で買うたらええやん」
「貰うのが好きなんだって」
「味に変わりはない」
「いや、それが違うんだなぁ」
「は! もう、意味判らんわ…」
呆れた坂口が、もう一度溜息をついた時。
丁度、ホテルの前に着いた。
きらびやかなエントランスを抜け、駐車場に車を止める。
「よぉ」
明が振り返ると、圭介が、スーツ姿でバイクから降りてくるのが見えた。
テナーのフライト・ケースを背負ったまま。
「何やお前、その格好で来たん?」
「いや、その、車出すの面倒で」
「アホ。転んだら、楽器潰れてまうやろ」
「慣れてますから。全然余裕っすよ」
「はぁ、どいつもこいつも」
早足で歩きながら、坂口がぼやく。
その後ろに、明と圭介が続く。
「あとの面子は? 控え室判っとらんのとちゃう?」
「吉住さん達はもう、先行ってますよ。セッティングもあるんで」
「譜面合わせは四時から言うてはったん。早よなったんかいな」
「ま、俺と明は手ぶら同然ですから。楽させて貰いますよ」
ヘルメットを脱ぎながら、彼は、明に向かって微笑んだ。
彼女は、呆れたように言う。
「何言ってんの。僕はまだしも、圭介はすることあるでしょう。リード合わせとか」
「そんなの、一分もかかんないって」
「どうでもええけど、あんじょうやりや。恥かかすんやないで」
二人は思わず、顔を見合わせる。
大口の仕事だけに、さすがの坂口も、気合いの入り方が違うようだ。
今日は、弦入りのフルバンドでの営業。
ヤマハのフルコンに向かいながら、明はひたすら、欠伸を噛み殺していた。
セレモニーのあと、延々と演奏をさせられながら。
成り上がりの演歌歌手や、音程の取れないアイドルの歌伴をする。
その間。
長い髪を後ろで纏め、男物のスーツに身を包んだ彼女のことを、女性と見抜いた客はいなかった。
ただ、一人を除いては。
休憩時間。
彼等バンドマンは、ホールの片隅にある円卓で、好きに飲み食い出来るようになっていた。
そこへ。
「あなた、ひょっとして、飯田明さん?」
突然、背後から声をかけられた。
「え?」
明は、驚いて振り返る。
そこに。
彩の姿があった。
「やっぱり。最初に見た時から、そうじゃないかって」
他のメンバーが、怪訝な顔をしていたので。
カクテルドレス姿の彼女の腕を、明はそっと掴んだ。
「向こうで話しましょう」
そう言いながら。
明は内心、不思議に思っていた。
彩が、自分に声をかけてきたことを。
(何のつもりだろう。自分から、僕に話しかけてくるなんて)
ドアに近い一角まで来ると。
彼女はあらためて、彩に向き直る。
「ねえ、誤解しないでね。わたし、お仕事の邪魔するつもりじゃ…」
「それは、判ってますよ」
明は、努めて穏やかに言った。
ピンクのショールを羽織った彩は、見違えるばかりに美しかった。
その左手に、大きなルビーの指輪が光っているのを、明は見逃さなかったが。
「でも、あそこで銘さんの話をされると困るんです。まだ誰も知らないことだし」
「ごめんなさい。そんなつもりじゃないの。ただ、あなたとお友達になりたくて…」
「申し訳ありませんが、お客さんとプライベートな付き合いはしない主義なんです」
「そうなの…」
彩は、長い睫を伏せた。
美しく磨いた爪で、無意識に髪を弄ぶ。
その様子を見て。
明は、彼女のことが、少しだけ気の毒に思えた。
「…銘さんは、今、札幌に行ってますよ」
「そうですってね」
「よく知らないけど…多分、あなたのためでもあるんじゃないかな」
「そうかしら」
「修子さんとは、相思相愛だったから。もう、三年も前から。その思いを振り切るのは半端なことじゃないと、僕は思います」
「…明さん」
「はい」
「あなたも…軽蔑してる? わたしのこと」
「僕は基本的に中立ですよ。敵でも味方でもない。興味ないって言った方がいいかもしれないけど」
「でも…」
「心配要らないです。こういうことは、あなた達にしか判らないことだから」
そう言って、微笑んだ時。
「明! 出番だぞ!」
圭介が、遠くから呼ぶ声を聞いた。
「はぁい!」
元気に返事をしながら。
明は、肩を竦めてみせる。
「すみません。もう戻らないと」
「あ、ごめんなさい。休憩中だったのに」
「まあ、あんまり気にしないで下さい。美術界は判らないけど、この業界じゃ別に、珍しいことじゃないから。それに…」
「それに?」
明は、彩を引き寄せると、その耳に囁いた。
「…僕も、そうなったことがあるから。銘さんと」
その言葉に。
彩は、はっと身をこわばらせる。
咄嗟に、彼女を抱き寄せると。
その額に、明は口付けした。
共犯者としての口付けを。
それから。
軽やかに踵を返し、ステージに向かう。
ピアニストの顔に戻って。
明の華奢な後姿を、彩は、呆然と見送っていた。
しかし。
その言葉が嘘だとは、到底思えなかった。