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青の旋律  作者: 一宮 集
26/55

第二十六話

休憩時間が終わったあと。

店内は再び、暗闇に包まれる。


レイナの前座として、修子がトリオを務めなければならない。

客席は、ほぼ埋まっている。

中年のサラリーマンが、年配のカップルが、冷ややかな視線を送る中。

彼女は、しっかりと銘を見て、カウントを出す。

曲は、"Stella by Starlight"。

キーはGmaj。

彼は敢えて、店の名前の由来でもあるこの曲を選んだのだ。


ミディアムのツービートから始め、修子のアドリブからフォービートへ。

ドラムの井上は、別人のようなレガートを刻み始めた。

堅実でありながら、時に自分を際どく押してくる銘のビートに、修子は心地良く身を任せていた。

彼の紡ぐ音と、自分の弾くピアノの旋律が重なり、響き合って。

ありきたりのスタンダード・ナンバーが、緊張感溢れる一つの楽曲となる。

その恍惚を。

彼女はこれまで、何度も経験していた。



ここ数年間。

アマ・プロを問わず、いろいろなベーシストと演奏する機会に恵まれてはいたが、彼のようなベースを弾ける人間は、一人もいなかった。

誰もがそれを、才能と呼ぶけれど。

その陰にある日々の努力を、彼女は誰よりも知っていた。

だからこそ。

銘のベースに、誰よりも深くインスパイアされ、その音色を、心から愛しいと思うのだ。



静かな青い焔に包まれるような、慎み深いソロが終わると。

ゆるやかな流れは、そのまま銘に引き継がれる。

本気の拍手が巻き起こるのを、修子の耳はしっかりと捉えていた。

思わず、胸が熱くなる。


拍手の余韻を受けながら。

銘の、ベース・ソロが始まった。

繊細な息吹を掻き消さないよう、そっとバッキングを続けているうちに。

誰もが、彼の音楽に引き込まれている手応えを感じていた。

客席は音もなく静まり返り、まるで、大きなコンサート・ホールにでもいるかのようだった。


銘の指先が弾き出す、強靭なピッツィカート。

重厚な単音が生み出していく旋律が、持ち前のセンスと大胆なダイナミクスを伴って、微かなピアノの残響に纏わっていくうちに。

音は熱を持ち、うねり、次第に高まっていく。

テクニックでもひけらかしでもない、本物の音楽が、そこにはあった。

32小節に渡る世界の中で。

彼の情熱が、繰り返し、聴衆の心を満たしていく。


この人に、一生敵う筈などないと、修子はあらためて思った。

自分に、御せるような人ではないと。



銘のソロが終わり、4バースに入る直前。

割れんばかりの拍手と歓声が沸くのを、修子は当然のように受け止めていた。

バック・リフを弾き終わり、最後の一音が宙に消えたあと。

狭い店の中は、数秒の間、静寂に包まれた。

そして。

思い掛けないことが起きた。

Gigでは珍しい、スタンディング・オベーションと、長く熱心な拍手。

さすがのレイナも、ステージに出るのを躊躇うほどだった。


取り巻く熱狂の中で。

修子は、確信していた。

これは、自分の実力ではない。

井上のドラムのお陰でもない。

これこそが、彼自身の力なのだと。

彼が命をかけてきた、音楽の魅力なのだと。


思わず。

涙が出そうになるのを、彼女は必死に堪えた。

泣いている暇はない。

すぐに、歌伴が始まるのだ。




レイナが参加して、数曲をこなす。

彼女の歌に寄り添うように気を遣いつつ、彼は慎重にラインを奏で続けた。

時に慰撫し、時に囁くように。

誘惑し、翻弄し、突き放し、抱き締めるように。

生き返ったレガートと、修子のピアノのサポートを上手く調整しながら、曲全体を巧みにコントロールしていく。


その時。

彼は、自分が如何に音楽を愛しているかを、あらためて思い知らされた。

色恋沙汰とも、平凡な日常とも隔絶された、無限の世界。

またこうして演奏が出来るなら、死んでも構わない。

そんな感慨が、彼にはあった。

自分の思いがバンドに伝わり、バンドの熱狂が客に伝わり。

それがまた、拍手や歓声、熱心な視線によって還元される。

何と、素晴らしい空間だろう。

何という喜びだろう。

こんなことが、自分に出来るだなんて。


曲に集中しながらも、彼は一人、感激に打ち震えていた。

そして。

修子に、深く感謝していた。

自分を理解し、その世界に導いてくれる、若きピアニストに。


例え。

今、修子と別れたとしても。

彼女の優れた音楽性を、この一瞬を、彼は永遠に忘れることはない。

恐らく。

彼女もまた、同じ気持ちだろう。

共に築き上げ、支え合ってきた経験は、お互いにとって、一生の財産なのだから。





結局。

三部まで、二人はレイナのバックを務めあげた。

アンコールは三曲。

銘と修子が参加してから、一人の客も席を立つことはなかった。


「ほんと、びっくりしたわ。この店始まって以来よ」


そう、レイナは笑っていたけれど。




西村とカナエ、それと井上に礼を述べてから。

残って飲んでいくように勧めるレイナに丁重に詫びを入れ。

銘は修子を連れ、店をあとにした。



すすきのは、水商売の女性とそのパトロンで溢れ返っていた。

きらびやかなネオンと、美しい街並みに目を細めながら。

彼は何故だか、笑いが止まらなかった。

釣られて、修子も笑い出す。

歩きながら笑い続ける二人を、周囲は怪訝な顔で見ていたが。

彼はもう、嬉しくて仕方がなかった。

楽しくて仕方がなかった。

修子と、こうして演奏出来たことが。

連中の鼻を明かしてやれたことが。


「これでもう、大手を振ってあの店に行けるだろう?」


銘は、彼女に囁いた。


「でも、いいのかな? 却って恨みを買ったりとかしない?」


「大丈夫だよ。オーナーはあくまで、レイナさんだから。彼女には100%気に入られたし」


「銘さんの口利きがあったから。わたしの実力じゃ…」


「そんなことない。よく、あれだけ弾けるようになったよ」


彼は微笑みつつ、近くにいたタクシーを拾う。

すこぶる、気分が良かった。

誇らしくて、仕方がなかった。

修子のことが。

十六歳からジャズを始め、僅か三年で、プロを凌ぐ実力をつけた彼女の成長が。

まるで、自分のことのように、嬉しくて仕方がなかったのだ。





麻生のアパートに戻ってから。

彼は、修子を捕まえて、一緒にシャワーを浴びた。

音楽という一線を越えたせいか。

わだかまりはもう、何処にもなかった。


たった三日だけでもいい。

本多に再び奪われてしまう前に、彼女を自分のものにしておきたい。

だから。

その間、彼は、彩のことを忘れようと思った。

限られた期間だけでも。

目の前にいる恋人を、愛したいと思った。



彼女の部屋の、シングル・ベッドの上で。

彼はあらためて、修子を求めた。

数時間前まで奏でていた音楽のように。

二人は求め合い、深く交わった。

互いの吐息を感じ、鼓動を共有して。

絡めた指すらも、愛おしく思いながら。

 

 

 

 

 

 

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