第二十六話
休憩時間が終わったあと。
店内は再び、暗闇に包まれる。
レイナの前座として、修子がトリオを務めなければならない。
客席は、ほぼ埋まっている。
中年のサラリーマンが、年配のカップルが、冷ややかな視線を送る中。
彼女は、しっかりと銘を見て、カウントを出す。
曲は、"Stella by Starlight"。
キーはGmaj。
彼は敢えて、店の名前の由来でもあるこの曲を選んだのだ。
ミディアムのツービートから始め、修子のアドリブからフォービートへ。
ドラムの井上は、別人のようなレガートを刻み始めた。
堅実でありながら、時に自分を際どく押してくる銘のビートに、修子は心地良く身を任せていた。
彼の紡ぐ音と、自分の弾くピアノの旋律が重なり、響き合って。
ありきたりのスタンダード・ナンバーが、緊張感溢れる一つの楽曲となる。
その恍惚を。
彼女はこれまで、何度も経験していた。
ここ数年間。
アマ・プロを問わず、いろいろなベーシストと演奏する機会に恵まれてはいたが、彼のようなベースを弾ける人間は、一人もいなかった。
誰もがそれを、才能と呼ぶけれど。
その陰にある日々の努力を、彼女は誰よりも知っていた。
だからこそ。
銘のベースに、誰よりも深くインスパイアされ、その音色を、心から愛しいと思うのだ。
静かな青い焔に包まれるような、慎み深いソロが終わると。
ゆるやかな流れは、そのまま銘に引き継がれる。
本気の拍手が巻き起こるのを、修子の耳はしっかりと捉えていた。
思わず、胸が熱くなる。
拍手の余韻を受けながら。
銘の、ベース・ソロが始まった。
繊細な息吹を掻き消さないよう、そっとバッキングを続けているうちに。
誰もが、彼の音楽に引き込まれている手応えを感じていた。
客席は音もなく静まり返り、まるで、大きなコンサート・ホールにでもいるかのようだった。
銘の指先が弾き出す、強靭なピッツィカート。
重厚な単音が生み出していく旋律が、持ち前のセンスと大胆なダイナミクスを伴って、微かなピアノの残響に纏わっていくうちに。
音は熱を持ち、うねり、次第に高まっていく。
テクニックでもひけらかしでもない、本物の音楽が、そこにはあった。
32小節に渡る世界の中で。
彼の情熱が、繰り返し、聴衆の心を満たしていく。
この人に、一生敵う筈などないと、修子はあらためて思った。
自分に、御せるような人ではないと。
銘のソロが終わり、4バースに入る直前。
割れんばかりの拍手と歓声が沸くのを、修子は当然のように受け止めていた。
バック・リフを弾き終わり、最後の一音が宙に消えたあと。
狭い店の中は、数秒の間、静寂に包まれた。
そして。
思い掛けないことが起きた。
Gigでは珍しい、スタンディング・オベーションと、長く熱心な拍手。
さすがのレイナも、ステージに出るのを躊躇うほどだった。
取り巻く熱狂の中で。
修子は、確信していた。
これは、自分の実力ではない。
井上のドラムのお陰でもない。
これこそが、彼自身の力なのだと。
彼が命をかけてきた、音楽の魅力なのだと。
思わず。
涙が出そうになるのを、彼女は必死に堪えた。
泣いている暇はない。
すぐに、歌伴が始まるのだ。
レイナが参加して、数曲をこなす。
彼女の歌に寄り添うように気を遣いつつ、彼は慎重にラインを奏で続けた。
時に慰撫し、時に囁くように。
誘惑し、翻弄し、突き放し、抱き締めるように。
生き返ったレガートと、修子のピアノのサポートを上手く調整しながら、曲全体を巧みにコントロールしていく。
その時。
彼は、自分が如何に音楽を愛しているかを、あらためて思い知らされた。
色恋沙汰とも、平凡な日常とも隔絶された、無限の世界。
またこうして演奏が出来るなら、死んでも構わない。
そんな感慨が、彼にはあった。
自分の思いがバンドに伝わり、バンドの熱狂が客に伝わり。
それがまた、拍手や歓声、熱心な視線によって還元される。
何と、素晴らしい空間だろう。
何という喜びだろう。
こんなことが、自分に出来るだなんて。
曲に集中しながらも、彼は一人、感激に打ち震えていた。
そして。
修子に、深く感謝していた。
自分を理解し、その世界に導いてくれる、若きピアニストに。
例え。
今、修子と別れたとしても。
彼女の優れた音楽性を、この一瞬を、彼は永遠に忘れることはない。
恐らく。
彼女もまた、同じ気持ちだろう。
共に築き上げ、支え合ってきた経験は、お互いにとって、一生の財産なのだから。
結局。
三部まで、二人はレイナのバックを務めあげた。
アンコールは三曲。
銘と修子が参加してから、一人の客も席を立つことはなかった。
「ほんと、びっくりしたわ。この店始まって以来よ」
そう、レイナは笑っていたけれど。
西村とカナエ、それと井上に礼を述べてから。
残って飲んでいくように勧めるレイナに丁重に詫びを入れ。
銘は修子を連れ、店をあとにした。
すすきのは、水商売の女性とそのパトロンで溢れ返っていた。
きらびやかなネオンと、美しい街並みに目を細めながら。
彼は何故だか、笑いが止まらなかった。
釣られて、修子も笑い出す。
歩きながら笑い続ける二人を、周囲は怪訝な顔で見ていたが。
彼はもう、嬉しくて仕方がなかった。
楽しくて仕方がなかった。
修子と、こうして演奏出来たことが。
連中の鼻を明かしてやれたことが。
「これでもう、大手を振ってあの店に行けるだろう?」
銘は、彼女に囁いた。
「でも、いいのかな? 却って恨みを買ったりとかしない?」
「大丈夫だよ。オーナーはあくまで、レイナさんだから。彼女には100%気に入られたし」
「銘さんの口利きがあったから。わたしの実力じゃ…」
「そんなことない。よく、あれだけ弾けるようになったよ」
彼は微笑みつつ、近くにいたタクシーを拾う。
すこぶる、気分が良かった。
誇らしくて、仕方がなかった。
修子のことが。
十六歳からジャズを始め、僅か三年で、プロを凌ぐ実力をつけた彼女の成長が。
まるで、自分のことのように、嬉しくて仕方がなかったのだ。
麻生のアパートに戻ってから。
彼は、修子を捕まえて、一緒にシャワーを浴びた。
音楽という一線を越えたせいか。
わだかまりはもう、何処にもなかった。
たった三日だけでもいい。
本多に再び奪われてしまう前に、彼女を自分のものにしておきたい。
だから。
その間、彼は、彩のことを忘れようと思った。
限られた期間だけでも。
目の前にいる恋人を、愛したいと思った。
彼女の部屋の、シングル・ベッドの上で。
彼はあらためて、修子を求めた。
数時間前まで奏でていた音楽のように。
二人は求め合い、深く交わった。
互いの吐息を感じ、鼓動を共有して。
絡めた指すらも、愛おしく思いながら。