第二十五話
「 ―― 修」
「うん」
「少し、ここで寝かせて貰えるかな」
「…うん」
「昨日は、徹夜だったから」
「ライブか何かで?」
「まあ、そんなとこかな…」
後ろめたさを覚えながら、彼は服を脱ぐ。
彼女のベッドは、いい匂いがした。
前日からの疲れのせいか、彼は、目を閉じるとすぐに、眠りに落ちてしまった。
その姿を見つめながら。
修子は手櫛で、乱れた髪を整える。
今にも、涙がこぼれそうだった。
(しっかりしないと…この三日だけでも)
そう、自分に言い聞かせると、彼女は立ち上がる。
彼への未練を、断ち切るように。
銘の服を畳んでいる時、ポケットの何かに触れた。
手を突っ込んで探ってみると、それは、携帯電話だった。
(銘さん、こんなの持つ人じゃなかったのに)
その存在に気付いた時。
心臓は、嫌でも高鳴った。
震える手で、彼女は携帯を開き、電源を入れてみる。
アドレス帳には何もない。
発信履歴は一件だけ。
その時間を見て。
彼女はあの一時間の間に、何があったかを悟った。
修子は信じられずに、その真新しい携帯を見つめる。
さらに。
彼の財布を開けてみる。
そんなことをしてはいけないと、重々承知しながらも。
奥の方に、畳まれた青いメモ用紙。
そこに書かれた、【槙村 彩】の文字と、二つの電話番号。
半ば確信を抱きつつ、携帯の発信履歴と、その番号を照合してみる。
間違いない。
彼の思い人は、この女性なのだ。
修子は、思わず目を瞑る。
救い難いショックと絶望とが、彼女を襲っていた。
胸の奥に、疼くような痛みが蘇る。
もう、取り返しがつかないのだと、彼女は思った。
彼は、自分が思っているよりずっと、遠くへ行ってしまったのだと。
銘が目を覚ました時。
修子は一人、パソコンに向かっていた。
電気もつけない部屋の中で。
「…修?」
彼女ははっとして、振り返る。
それから慌てて、電源を落とす。
彼は、裸のまま、修子を抱き締めた。
その胸に残る、深い傷跡に。
彼女は、唇をつけていく。
「シャワー、借りてもいいかな」
「うん」
「それから、ちょっと出掛けようか」
「何処に?」
「一度、連れて行きたい場所があったんだ」
額に口付けしつつ、銘は微笑んだ。
修子は黙って、その顔を見上げている。
その唇に。
彼は、あらためて唇を重ねた。
この三日間。
昔の自分に戻ることを、彼は、すでに決めていたのだ。
近場のロイヤルホストで軽く食事を済ませてから。
銘は修子を連れ、南北線に乗ってすすきのへ出る。
彼が向かったのは、"Stella"。
ヴォーカリスト、藤崎レイナの店だ。
分厚いドアを潜ると、すぐに、黒服が飛んできた。
「何名さまでしょうか?」
「二人です。なるべく、ステージに近い席がいいな」
「畏まりました」
グランド・ピアノを取り巻くように作られたカウンターに、二人は腰を下ろす。
丸テーブルからスツールまで、黒で統一された店内。
平日だと言うのに、周囲はほぼ満席だ。
修子は、落ち着かない様子で、辺りを見渡した。
「来たことないの?」
銘は、訊いてみる。
「だって、高いって噂でしょう?ここ…」
「確かに、安くはないかな。ミュージック・チャージだけで4000円だからね」
彼は、笑った。
運ばれてきたボトルに、手をつけながら。
「銘さん、慣れてるみたい」
「彼女とは、ちょっと付き合いがあったから」
「どんな?」
「どんなって ―― ほら、始まるよ」
促されて見ると、奥の扉からメンバーが現れた。
歌伴を担当するトリオらしい。
神経質そうなピアニストは、自信たっぷりな顔をして、グランドの前に座る。
BGMが止まった瞬間、演奏が始まった。
曲は、"How Deep Is The Ocean"。
西村康彦の名前を、彼は以前から知っていた。
しかし。
評判とは裏腹な、酷いプレイだった。
散漫な指使い、適当なアドリブ。
明らかに、客を舐めている感じだ。
中年のドラマーは終始横を向いていて、如何にもやる気がない。
ベーシストは若い女性。
運指も音程も、いい加減極まりない。
その癖。
金のかかった衣裳を身に纏い、やけに気取った弾き方をしている。
修子が、ちらっと彼を見る。
彼女もまた、同じことを感じているようだ。
それからこっそり、耳打ちしてくる。
「…銘さん」
「うん」
「わたしが言うのはちょっとあれかもしれないけど…こんなものなの?」
「まあ、最初のステージだからね。平日だし、手を抜いてるんだろう」
彼は、彼女にグラスを渡して微笑んだ。
その時。
西村と、目が合った。
若いピアニストは、突然、指をもつれさせた。
思いがけず、ミストーンを連発する。
明らかに彼は、カウンターにいる青年の素性に気付いたようだった。
ベーシストが、怪訝な顔をして、彼を見ている。
その後。
何とか、エンディングに持ち込むものの。
その顔は、蒼白になっていた。
刹那。
金色のスポットが、ステージの奥を照らす。
そこに。
黒いドレスに身を包んだ、レイナの姿。
もう、50近い筈なのに、その美しさは変わらない。
店内には、割れんばかりの拍手が巻き起こる。
「こんばんは、皆様。"Stella"へようこそ。只今の演奏は、西村康彦トリオでお送りしました」
妖艶な笑みを浮かべ、客席を見渡す彼女の貫禄に、修子は息を呑んだ。
長いシルバーのピアスが、スポット・ライトを浴びてきらめいている。
「札幌の短い夏も、もう終わり。皆様には何か、思い出はありますか? その夏を惜しみつつ、次の曲をお届けしたいと思います。"Summer Nite"」
西村のピアノは、気合の入ったイントロを出す。
さっきとはまるで、別人のようだ。
覇気のないリズム隊を牽引するように、レイナの力強い声が響く。
Nina Simonを思わせる、絶妙なアーティキュレーション。
その歌を聴きながら、銘はあらためて思った。
彼女はやはり、本物だと。
背筋がざわめき、鳥肌が立つ。
目を閉じれば。
彼女と共に、ステージに立っていた頃の自分に戻れる気がした。
音楽を愛し、夢中になっていた頃の自分に。
1ステージ目が終わると。
レイナはすぐに、銘の元へやって来た。
片手に、グリーンの瓶を持ちながら。
「銘ちゃん!」
「お久し振りです」
銘は立ち上がり、彼女としっかりhugを交わした。
「何よ、嫌な子ね。来てるなら言ってくれればいいのに」
「すみません。つい数日前に決まったものですから」
「2ステから、入ってくれるわよね?」
「いや、そんなつもりじゃないですよ。今日は、レイナさんを聴きに来たのに」
「いいから入って。遠慮することないわ。うちの若い子達にも聴いて欲しいし」
そう言って、カウンターの中に目配せする。
ベースを弾いていた女性が、慌てた様子でやって来る。
「この子、ベース始めてまだ四年なの。まだまだだけど、最近少し判ってきたかな」
戸惑う彼女を、レイナは引き寄せた。
「カナエちゃん、こちら、郁崎銘さん。名前ぐらいは、聞いたことあるでしょう?」
「初めまして」
彼が手を差し出すと、彼女は心底驚いたように、レイナを見返した。
「え、ほんとですか? あの、郁崎さん?」
握手を交わす手が、震えている。
「田沼カナエです。ほんと、お恥ずかしいです。あんな演奏をお聴かせしてしまって…」
「いえ、とんでもない」
「うわ、ほんと、今日が出番で良かった。あたし、大ファンなんですよ」
「それはどうも」
感激に身を震わせるカナエを見て、レイナは微笑んだ。
「もう、五年も前かしらね。一緒にツアーをしてたのは。体を壊して、今は都内で活動してらっしゃるのよ。ね?」
「いや、都内でも滅多にやってませんけどね」
銘は、正直にそう答えた。
それから。
レイナの目は、隣にいる修子に向けられた。
「お連れの可愛い方は? やっぱり、ミュージシャンなの?」
「あ、はい」
彼は、修子の肩に手をかけて言う。
「彼女、札幌在住なんです。まだ学生ですけど、素晴らしいピアニストですよ」
「まあ、そうなの? 素敵じゃない!」
レイナの目が、一際輝いた。
当然ながら、修子は酷く慌てた。
「そ、そんな。わたしなんかまだ全然…」
銘は、それに被せて言う。
「本当ですよ。何ってったって、あの、本多俊明の愛弟子なんですから」
「へえ、本多さんの? ああ、そう言えばこの前、ツアーでいらしてたわよね」
その時。
カウンターの端に座っていた西村が、ぎょっとしたように振り返る。
それを横目で見ながら、銘はレイナに囁いた。
「俺に演奏させて下さるのなら、彼女にもチャンスを下さいよ」
「勿論。あなたが褒めるからには、余程の腕でしょうからね」
抗弁しようとする修子を制して、レイナは言った。
「西村ちゃん、悪いけど、代わって貰っていい?」
ピアニストは、仕方ないなという風に、渋々頷く。
それを見た修子は、ますます慌てた。
思わず、レイナの腕に取り縋る。
「あの、レイナさん。わたしほんと、駄目ですから…」
「いいのよ。こういう時は、もっと自分を売り込まないと」
悪戯っぽく笑うと。
彼女は、手にしたハイネケンを小粋に振って見せる。
それを見た銘も、水割りのグラスを一気に干した。
久し振りのステージに、軽い緊張を覚えつつ。