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青の旋律  作者: 一宮 集
24/55

第二十四話

午前九時三十分。

新千歳空港に、機体が降り立った時。

ランディングの衝撃で、銘は、ようやく目を覚ました。


北の大地には、抜けるような青空が広がっている。

降り注ぐ日差しに軽い頭痛を覚えながらも、彼の気は晴れなかった。

果たして、修子が何と言ってくるのか。

もし、絶対に別れたくないと言われた時、自分はそれを拒否出来るのか。

彼にはまだ、迷いがあった。


しかし。

彼はすでに、彩を選んでしまった。

そのせいで。

例え、彼女を傷付ける結果になったとしても。

どれほど、責められようとも。

全ての(とが)を、背負っていく覚悟をしなければと、銘は、心に決めていたのだ。




小さなバッグを一つ抱えて、到着口を出ると。

そこに、修子の姿があった。

ワイン・レッドのプレーンなTシャツに、細身のジーンズ。

以前彼が贈った指輪は、まだ、左手の中指にあった。


銘の姿を見つけると、彼女はすぐに歩み寄ってきた。

彼は、何と言っていいのか判らなかった。


ぎこちない空気の中で。

最初に口を開いたのは、修子の方だった。


「…疲れた?」


「いや、大丈夫」


「朝ご飯は?」


「まだだけど…修は?」


「わたしもまだ。札幌着いてから、お昼と兼用にする?」


「そうだね」


一通り、会話を交わしてからも。

目に見えない壁のようなものを、彼は感じていた。




石狩ライナーに乗り、札幌に向かっている間も。

二人は、殆ど口をきかなかった。


猛烈な睡魔と、それに伴う頭痛を堪えながら、

銘は必死に、自分と闘っていた。

ややもすると、修子へ傾いてしまいそうになる自分の気持ちを修正することに。

彼は、全力を尽くしていたのだ。


そんな時。


不意に、修子が腕を絡めてきた。

そのまま、彼の肩に凭れてくる。


「…修」


「銘さん…わたし、判ってるから…」


「……」


「あれからずっと、考えてたの。わたしが悪かったんだって。ろくに連絡もしないで、自分のことばっかり考えてて。 離れた場所にいて、銘さんがどんなに心配してたか、やっと判った。だから…銘さんに嫌われてしまっても、仕方ないんだって…」


目を閉じて、彼女は続ける。


「ごめんなさい。今更謝っても、きっと、遅いんだろうけど…」


左手を預けたまま。

彼は、言葉を失っていた。


「ねえ…わたし、判ってるから。銘さんがどうして一人になりたいって思ったのか。もう、諦めたの。それがあなたのためだって。でも…怒らないでね。明後日までは、恋人のままでいて欲しい…昔の銘さんでいて欲しいの…わたしも、昔の自分に戻るから。銘さんのこと、大好きだった自分に戻るから…」


「…ごめん、修。でも、君のせいじゃない。俺が悪いんだ。修を嫌いになった訳じゃない。でも…もう、どうしようも…」


「判ってる。だから…謝らないで。あなたのせいじゃないもの。最後のお願いだけ、聞いて欲しいの。もし、銘さんが嫌じゃなければ…」


彼女の目から、涙が溢れた時。

銘は堪え切れず、その手をきつく握り締めた。


ほんの数時間前まで彩を抱いていた手で、修子に触れることに、彼は抵抗を感じていた。

しかし、彼女の健気さに触れた時。

その思いまで突き放すことは、どうしても出来なかった。





札幌駅に到着して、近所の喫茶店で軽く食事を済ませたあと。

銘は、一時間だけ一人にして欲しいと、修子に頼んだ。


「うん、判った。駅ビルの中、のんびり見てるから」


彼女は笑って、エスカレーターを上っていく。

その後ろ姿を見送りながら、さすがに胸が痛んだが、約束を違える訳にはいかない。


その足でビックカメラへ赴いた彼は、迷わず一階の携帯売り場へと向かった。

初めての経験だったが、四十分ほどで、全ての手続きが終わった。


真新しい携帯を手に、店を出る。

交差点の角でメモを取り出し、慎重にプッシュ・ボタンを押す。

すぐに、彩が出た。


「無事に、着いたの?」


上気した声が、耳元から流れてくる。


「うん。これから、彼女のアパートへ行くんだ」


「そう…」


「修子は、何もかも判ってたみたいで。ただ、この三日だけは、前と同じように接して欲しいと」


「……」


「それで、全てが終わるよ。そうすればもう、俺はあなたのものだ」


通りを行き交う人々が、彼をちらりと一瞥する。

何故か、彼等が全て事情を知っているような気がして、落ち着かなかった。


「銘さん…本当にいいの?」


「いいよ。今更、引き返す訳にはいかないし。第一…」


彼は、溜息をついた。

それから、自分に言い聞かせるように話す。


「これは、彼女のためでもあるから。帰ったら、詳しく話すけど」


「うん…」


「また、暇を見て電話するよ。今日は、家にいるの?」


「多分。ちょっと、描きたいものもあるし」


「判った。じゃあ、またあとで」


やや興奮を覚えながら、終話ボタンを押す。

店員に教えて貰った通り、電源を落としてから、彼は、修子との待ち合わせ場所に向かった。





修子のアパートは、南北線麻生駅から、すぐの場所にある。

日当たりのいい、小奇麗な2LDK。

几帳面な彼女らしく、室内は整然と片付けられていた。


部屋に入り、ドアを閉めると、途端に緊張が蘇る。

恐らく、彼女も同じ気持ちだろう。

そう、銘は推測していた。


小さなリビングの床に、二人は並んで座る。

この部屋に来るのは、今回で三度目だった。


「…何か、飲む?」


彼女が、遠慮がちに訊く。

銘は、首を振りつつ微笑む。


「いや、大丈夫。さっき、珈琲飲んだばかりだし」


「そう…」


修子の胸中にも、また、葛藤があった。

目の前に、愛する人がいる。

そう思いながらも、体は動かない。

彼の胸に飛び込みたくとも、そう出来ない理由があった。


その迷いを察したかのように。

彼は、その肩を抱き寄せる。


「ごめん、修、俺…」


「謝らないで。お願いだから。泣きたくなっちゃう」


彼女は、心の揺れを隠して笑ってみせた。

溢れる涙を隠すように、彼の肩に顔を埋める。


「銘さん…好きな人、いるんでしょう?」


「…え?」


「すぐ、判った。…コロン、残ってるもの…」


銘は、思わず息を呑んだ。

たちまち、駆け上がってくる罪悪感。


反射的に体を離そうとした彼の首に、修子の両腕が回された。

そのまま、柔らかな唇が重なってくる。


彩に対する思いと、修子に対する未練。

激しい葛藤が、通り過ぎたあと。

もう、抗うことなど、出来そうになかった。


何度も口付けを交わしながら、彼は、修子を求めた。

Tシャツを脱がせると、透き通るような肌が露わになる。

背中のホックを外し、胸に口付けていく。

次第に、彼女の呼吸が早まっていくのが判った。


背中を掻き抱く腕。彼もまた服を脱ぎながら、体を重ねていく。

久し振りに抱く恋人の体。

堪えきれずに彼女が漏らす声と、熱い吐息を感じるたび。

胸は、鋭く疼いた。


その時。


修子は突然、咎めるように、両手でその体を押しとどめた。

乱れた息のまま、彼を見上げる。


「 ―― ごめんなさい」


興奮をぎりぎりで抑えつつ、彼は努めて優しく訊いた。


「どうしたの?」


「……」


「ごめん…嫌だったかな」


彼女の瞳から、また、涙が溢れる。


「そうじゃないの。そうじゃない…でも、もう…」


自分の背中に、じわじわと嫌な感触が上ってくるのを、銘は自覚していた。

嫌な予感が現実のものとして形となる様を、彼は、直視するしかなかった。


「…もう、わたし、銘さんに愛される資格なんて…」


「…どういうこと?」


銘を抱き寄せて、彼女は目を閉じた。

彼もまた、その華奢な肢体を抱き締める。

まさか、と彼は思った。

そして無意識に、修子の言葉の続きを想像していた。

彼が思い描くことの出来る、最悪の筋書きを。


「会ったの。本多さんに ―― 銘さんに言われた通り。だから…」


彼女の腕は、一層きつく背中を抱く。

微かな嗚咽が、彼の耳を打つ。

一瞬。

時が、止まったかのように思えた。


その髪を、優しく撫でながら。

銘は、深い溜息をつく。


「…そうか」


途端に、全身から力が抜けていくのが判った。

その事実は、想像以上に彼を打ちのめしていた。

同時に、本多に会ったという言葉の意味を、彼は瞬時に理解した。

修子がもう、自分のものではないということを。



ショックを隠しきれないまま、彼は、修子から体を離した。

気まずい思いで、服を着けながら。

この責任は、自分にもあると思っていた。

彼女を見捨てた、自分のせいだと。


そう思う一方で。

修子を責めるような思いも、またあった。

そんな自分の身勝手さと、救い難い現実の重さを。

嫌でも、受け入れるほかはなかった。

 

 

 

 

 

 

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