第二十三話
「…お友達?」
天上から降り注ぐような声が、彼の耳をくすぐる。
「うん。そう」
明は平然と言い、美しい声の主に歩み寄る。
「今日は、調子が良さそうだね」
青と話す時。
明の声に、普段とは違うトーンが混じることに、圭介は気付いていた。
元々中性的な彼女が、まるで、少年のような話し方をする。
「そう。何だか、あなたが来るような気がして…」
「どうしたの。こんなに濡れて」
その腕を優しく取った時。
明は、彼女の服が酷く濡れていることに気付いた。
「ああ、夜、通り雨が降って。ずっと見ていたの。あんまり綺麗だったから」
「雨が好きなのは知ってるけど。もう、風邪引くだろう?」
娘を宥める父親のように言うと、明は彼女の腰を抱き、部屋へ連れていく。
そのあとを、圭介も追う。
「…明さぁ」
「何?」
「俺、廊下で待ってようか?」
「いいよ別に。入ってても」
「青さん、着替えさせるんだろう? 俺、こっちにいるから」
「あ、そうか。悪いね」
そう言いながら。
明は、奥の一室に消えていく。
幾分ペンキのはげかけた、白い柱に寄りかかると、彼は煙草を取り出した。
火を点けて深く吸い込む頃に、二人の会話が聞こえてくる。
「また、ぶつけたの? ここも青くなってるよ」
「そう? 気が付かなかったわ」
「これだもの。あと、裸足で歩いちゃ駄目だって。踵も切れてるし。いつも言ってるだろう?」
「ごめんなさい。でも、気持ちがいいのよ、その方が」
「それは判るけど、でも、外に出ちゃ駄目だよ。判った?」
「ごめんなさい…ねえ、お願いだから、怒らないで…」
「怒ってないよ。ただ、心配なだけ。青は、ちょっと目を離すと、何するか判らないから」
(相変わらず、不思議な親子関係だよな…)
彼女達のやり取りを聞くたびに、圭介はそう思った。
明が言うように。
青は、まるで少女のようだ。
恐ろしく無垢で、夢のように美しい、永遠の乙女。
稀有な美貌と天性の才能故に、青は若い頃から、嫌でも人目を引く女性だった。
そのため、誰もが彼女に魅了され、その関心を得ようとしたのだが。
彼女の心を捉えることが出来たのはただ一人。
明の父親だけだった。
奇妙な会話を聞きながら、煙草を吸い終わる頃。
明は、彼の名を呼んだ。
「圭介。もういいよ」
彼は、慎重に煙草を揉み消して、床に出来た水溜まりに浸したのち、開け放した窓から外へ捨てた。
それから、白塗りの扉を押し開ける。
錆びた蝶番が低く唸りを上げるのと同時に。
戸外からの風が、彼の頬を掠めて通り抜けていく。
青は、天蓋付きのベッドの上で、半身を起こしていた。
病人特有の蒼白な頬に、薄らと赤い唇。
ロシア人の父譲りの、端整な顔立ち。
ゆるやかなウェーブのかかった髪は、腰近くまで伸びていて。
フェルメールの絵のように静謐な美が、そこにはあった。
「…どうも」
圭介は、微かな緊張を感じつつ、会釈を返した。
彼女の姿を見ると、いつも、溜息が出そうになる。
その名の由来でもある、深い青色の瞳が、彼を優しく捕らえた。
「内藤さん、ですよね」
「ええ、そうです」
「前もいらしてたでしょう。いつも明がお世話になって」
「いえ、とんでもない」
「あ、圭介。その辺に座ってて」
明が、傍にある椅子を指差した。
彼は言われるがままに、そこに腰を下ろす。
映画に出てくるような瀟洒なベッドの端に、明は腰掛けて、母親の手をさすっている。
その手に、温もりを戻そうとしているかのように。
そんな娘の姿を、青は、微笑みながら見詰めている。
時折、明の髪を撫でながら。
やがて。
青は包み込むように、その体を抱擁する。
光がこぼれるような笑みを浮かべて。
二人の傍にいる時。
圭介はいつも、違和感を覚えた。
長年病床にある母と、それを気遣う娘。
一見美しい光景なのに、何かが狂っている。
奇妙な不協和音を、彼の耳は捕らえていた。
三十分ほど、そうしているうちに。
青は、再び眠りに落ちてしまった。
その体を、優しく横たえてから。
明は、彼女にそっと布団を掛け直し、窓を閉めて歩く。
「ごめん、付き合わせて」
圭介に背を向けながら。
明は珍しく、そんな言葉を口にした。
「いや、大丈夫」
彼は、欠伸を噛み殺して立ち上がる。
「眠いでしょう?」
「まあな。明も徹夜だろう? よく持つよな」
「さっき少し眠らせて貰ったし。元々タフだからね」
「まさか。とてもタフには見えねぇよ」
そう言って、圭介が笑うと。
明は、ちょっとだけ笑顔を見せた。
窓を全て閉め、部屋の扉を静かに閉ざしてから。
明は、二階の渡り廊下を通り、その奥にある自室へ向かう。
空はすっかり明るくなり、大きな窓の向こうには、遠く海が見渡せた。
鳥のさえずりが、辺りに響いている。
降り注ぐ陽光の下、木々の緑は、より艶やかに輝いていた。
途中。
思いついたように、明が訊く。
「シャワーする?」
「いや、いいやもう。起きてからで」
「じゃ、僕もそうする」
明が微笑んで、廊下の行き止まりにある大きな扉を開けると。
外国製のコロンの匂いが、俄かに鼻腔をくすぐる。
滅多に使わない筈なのに、中は、整然と片付けられていた。
カーテンからカーペットまで、黒で統一された部屋の中央には、如何にも明らしい、簡素なベッドが置かれている。
他には、年代物のソファーとマホガニーのテーブル、洋書の並ぶ本棚があるのみ。
「相変わらず、殺風景な部屋だよな」
圭介は、呆れて言う。
「あんまりごちゃごちゃ置くの、好きじゃないからね」
「何だか、ラブホみてぇ」
「へえ、行ったことあるの?」
「何度かな。興味本位。どんなもんかなって思って」
「巧くんと?」
「まあ、その、いろいろな」
圭介が言葉を濁すと、明はそれ以上追及しなかった。
彼に背を向けて、何の躊躇いもなく、服を脱ぎ始める。
「また、一緒に寝るのか?」
彼は、念を押してみる。
「駄目?」
「いや、別にいいけど。俺、寝言酷いから、弱味握られそうで怖いんだよな」
「大丈夫。全部メモしといてやるから」
そう言って、彼女はくすくす笑った。
ちょっと迷ってから、圭介もまた服を脱ぐ。
明を気遣って、背を向けるようにベッドに潜り込むと。
彼女は背後から、彼の体を抱く。
彼はまた溜息をつき、明に向き直る。
「パジャマぐらい着ろよ。一応、女なんだから」
「嫌いなんだ。苦しくなってさ」
「素っ裸はまずいだろう」
「下は穿いてるよ」
「まあ、お前は色気のかけらもないから、男と大して変わらないけど…」
「いいよ、抱いても」
「冗談。俺を誘惑しても無駄だって言ったよな?」
「判ってるって」
「どうせまた、安眠枕にするつもりだろ?」
「ご明察」
「ったく。お子ちゃまはこれだから」
そう言いつつも。
圭介は、明の首の下に右腕を滑り込ませる。
その胸に、彼女はぴたりと身を寄せてくる。
細い体をしっかりと抱き締めて、彼は欠伸をした。
明の温もりと、均整の取れた体の感触が伝わってくる。
(やれやれ。ほんと、無防備な奴だよ)
もう一言、文句を言ってやろうと思った時。
明はすでに、軽い寝息を立てていた。
その寝顔を見た時。
彼は、何も言えなくなってしまった。
涼やかな空気と、人肌の温かさの中で。
圭介の瞼も、次第に重くなっていく。
自分の腕の中にいる、友人とも恋人とも言えない相手の額に、
彼は敬意を払いつつ、口付けする。
青との不協和音を、拭い去るように。
その心の痛みを、分かち合うように。