第二話
3年前の冬。
明が、ニューヨークから帰ってきたばかりの頃だ。
その日は1ステージ目から満席で。
狭い店内には人が溢れ返り、立ち見も出た程だった。
この店のオーナー、山崎馨と共に、彼は忙しく働いていた。
演奏など聴いている暇もない。
オーダーを取りつつ、バイトの学生に指示を飛ばす。
そんな時。
「…すみません」
カウンターの客に、声をかけられた。
振り返ると、風采の上がらない男が一人、遠慮がちにメモを差し出してきた。
「リクエスト、お願いしたいんですが」
銘は愛想良く微笑んで、その紙を手に取る。
曲は、"My One And Only Love"。
スタンダードのラブ・ソングだ。
まずいな、と、彼は思った。
明の嫌いな曲だからだ。
ふと見ると。
その客の隣には、綺麗な女性が一人。
真っ青なカーディガンに、白いブラウス。
伏目がちに、彼を見詰めている。
どうやら。
カウンターの下で、手を繋いでいるようだ。
「近々、結婚するもので」
言い訳しながら、男は顔を赤らめた。
「そういうことでしたか」
銘は、納得した。
頷いてのち、控え室へ向かう。
丁度、10分間の休憩に入っていたのだ。
「リクエスト?」
案の定。
明は、眉を顰めた。
「うちは受けないって言ってたでしょう。しかも、よりによってこの曲だなんて」
「そう言うと思ったよ。でも、悪いけど、何とかしてくれないか」
「訳ありなの?」
「まあね。お客さんに、いい思い出を作ってあげるのも、ミュージシャンの使命だと思うけど」
その紙片を睨みながら、明はしばし黙考した。
それから、大きく溜息をつく。
「…仕方ないな。銘さんの頼みなら」
「やってくれるかい?」
「その代わり、チャージバック弾んでよ」
「判った。馨さんに言っておくから」
彼は、カウンターへ戻ると、その旨を二人に伝えた。
2部の半ばに、明は約束通り、その曲を演奏した。
嫌いと言う割には、きちんと情感の籠もったピアノを弾く。
我儘で気難しいけれど、彼女はあくまでプロなのだ。
カウンターの二人は、仲良く寄り添って、その曲を聴いていた。
彼女は途中、涙ぐんでしまう。
その細い肩を、彼はそっと、抱いてやる。
そんな二人の姿を、銘は、カウンターの内側から見守っていた。
天然パーマの中年男と、若い美女。
不思議な組み合わせに思えたものの。
そんな姿は、なかなか微笑ましかった。
アンコールの拍手を、ようやく諦めて。
客は続々と、席を立っていった。
今日のGigも、無事に終わったようだ。
後片付けに追われる銘を、男は引きとめた。
「これ、バンドさんに」
そう言って、一万円札を握らせてくる。
さすがに、銘も不安になる。
「こんなに、いいんですか?」
「ええ。お陰で、素敵な夜になりましたから」
「判りました。こちらから、お渡ししておきますね」
帰る二人を、階段の上まで見送ったあと。
ステージでファンと話しているメンバーに、その金を渡そうとした彼は、
その札に青い絵の具がついていることに気付いた。
「これ、チップ。リクエストくれたお客さんから」
「うん。ありがとう」
明は躊躇わず、それを手に取る。
圭介と、ベーシストの葵が、それを覗きこむ。
「C万か。豪気だな」と、圭介。
「いいお客じゃないですか」
「そんなに貰えるんだったら、あと何曲かやるんだったな」
ドラムの徹がおどけてそう言うと。
一同、思わず顔を見合わる。
不意に。
明は、その青い塗料に気付いたようだ。
「何、これ?」
「絵の具みたいだね」と、銘。
「絵描きか何かなの?」
「見た目は、そんな感じだったな」
「へえ」
「何だか、変わった雰囲気の人だったから。案外、そうかもね」
「まあいいや。ありがたく貰っておくよ」
やや首を傾げながらも。
彼女はその札を、ジーンズの尻ポケットに突っ込んだ。
それからすぐに、恒例の打ち上げが始まって。
彼等はいつものように、アフター・アワーズを始めた。
お客とは関係なく、ミュージシャンが自らの楽しみのためにする演奏には、
金を貰うためのGigとはまた違った面白さがある。
酒を酌み交わし、散々盛り上がったお陰で。
彼は、その札のことも、奇妙なカップルのことも、すっかり忘れてしまっていたのだ。