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青の旋律  作者: 一宮 集
19/55

第十九話

銘と別れてのち。

明は足早に、圭介のマンションへ向かった。

店からは、一駅と離れていない距離だ。



暗証番号を入力し、ドアのロックを解除する。

そこから、地下の駐輪場へ続くスロープを歩いていた時。

背後から来た車が、軽くクラクションを鳴らしてくる。

振り返ると、そこに、圭介のフェアレディZがあった。


「どうした? 今から帰る?」


彼は、窓を開けて身を乗り出す。

しんとした駐車場に、その声は響いていく。


「そうだけど」


「送ってくよ」


「いいよ。チャリで帰るから」


「いいから、乗れって」


微笑みつつ、圭介は手招きする。

明は、しょうがないなという風に、肩を竦めて見せた。


彼女が助手席に乗り込むのを確認してから、車は、軽やかにUターンする。

圭介は、246に出る前に、ナビの設定を赤坂に変更した。

カーステレオから流れているのは、ブランフォード・マルサリスの"REQUIEM"。


「へえ、懐かしい。これ、好きだったんだ」


明が、目を輝かせて言う。


「だろ? いいよね。俺も好き」


「ケニー・カークランドが参加した、最後のアルバムだよね?」


「そう。この前HMVで見つけてさ。最近、こればっか聴いてる」


微笑みながら、彼は、ボリュームを上げる。

その手元を眺めながら。

明は、躊躇いがちに口を開く。


「…圭介さぁ」


「ん?」


「明日、予定ない?」


「今のとこね。久々のオフだから。明もだろう?」


「うん」


「そっか。じゃ、このまま何処か、遊びに行く?」


「……」


「山中湖でも、伊豆でも。日帰り出来る距離なら、何処でも連れてくよ」


「あのさ…出来れば、葉山まで送って欲しいんだ」


「あ、はいはい。おふくろさんとこな」


圭介は、前方を見たまま頷いた。


「いいよ。泊めてくれるんなら、明日、一緒に帰ってもいいし」


「良かった。助かるよ」


「ったく。俺にまで遠慮すんなよ」


明は安堵の表情を見せ、助手席のシートを倒した。

それから目を閉じて、深い溜息をつく。


「どうした。元気ねぇな」


「別に」


「銘さんと、何かあったのか」


「何もないよ」


「嘘つけ。お前、ほんっと判り易いからな」


「圭介こそ、何やってたのさ。こんな時間まで」


「お、上手く切り返したな」


彼がくすくす笑うたび。

形のいい耳にかかる、茶色の髪の隙間から、シルバーのピアスが光る。



サックス奏者の内藤(ないとう)圭介(けいすけ)は、明と同い年。

工業大学に通う、現役の学生だ。

銘の紹介で、去年から、明のユニットに加わった。

複雑な家庭環境で育った彼は、明と大いに気が合った。

そのため。

二人は、暇さえあれば、一緒に出歩いているのだった。



「妹のとこだよ。あいつ来年受験なのに、全然勉強してねぇから」


「麻由ちゃん、もう高3だっけ」


「そう。危機感のかけらもない。俺と一緒でさ。家系かもな」


信号待ちの間。

彼は、伸びをした。


「…で。銘さんと何があった?」


「だから、何もないよ」


「例の、女の件だろ?」


明は、反射的に彼を見た。


「鍵を返してきただけ。もう、行かない方がいいと思って」


「へえ。やっと、親離れする気になったか」


「親って言うか…もっと早く気付くべきだったんだ。銘さんは、そういうのに縁がない人だって、僕は勝手に決め付けてた気がする。行動を起こすからには、あの人は本気なんだよね。元々、口先だけの人じゃないから」


「俺は新参者だから、その辺のいきさつは良く判んない。けど…」


アクセルを踏み込みながら、彼は首を捻った。


「まあ、見守ってやるのが一番じゃね? こういう場合は特に」


「そうだね。僕もそう思うんだ。ただ、少し距離を置いた方がいいと思って…」


「何でまた?」


「圭介は、女の嫉妬を知らないな?」


「はは、確かに。俺、女は嫌いだから。特にそういうの、ウザくて駄目」


「やっぱりそうなんだ」


「何言ってんだ、今更。知ってた癖に」


「薄々はね」


「じゃなきゃ、お前と何もしないで寝てられる訳ねぇじゃん」


「僕に、興味がないのかと思ってたよ」


「お前に興味がない男がいると思ってんの?」


圭介は肩を竦め、マルボロを取り出した。

明も黙って、手を伸ばす。


「何?」


「一本頂戴」


「止めとけ」


「何で」


「らしくないだろ」


「いいから」


彼は根負けして、一本を(くわ)え、残りを箱ごと明に渡した。

左手でライターを取り、火を点ける。

それから、明の煙草にも。


「ありがと」


「どういたしまして」


彼は、運転席側の窓を、少しだけ開けて呟く。


「知らねぇぞ、おふくろさんに怒られても」


(あおい)はそんなの気にする人じゃないよ」


「俺が不良娘にしたって言われそうで怖いな」


「大丈夫。だって、あの人は…」


明は、紫煙を眺めつつ、他人事のように言う。


「僕のことになんか、まるっきり関心ないから」


「そうかな」


「そうだって」


「正気の時の青さんは、結構心配してるんだぞ、お前のこと」


「それだって、せいぜい、年に数回だよ。あとはずっと、夢の世界にいるもの。あの人は、眠りの森の美女なんだ。年も取らず、暑さも寒さも、痛みも知らず…」


「でも、ピアノは弾ける」と、圭介が付け加える。


「そう。ピアノだけはちゃんと弾ける。レコーディングもこなせるぐらいにね。それが皆、不思議で仕方がない。もう十数年もあんな状態なのに、ピアノだけは、決して青を見放さない。父さんに言わせれば、音楽の神様に愛されてるからなんだって」


「なるほどな。でも、判る気はする。青さんの演奏は、神がかり的だから」


「だから僕は一生、青には敵わない」


「そんなことないだろ」


「いや、ほんと。愛情も貰えず、母親らしいことなんか何一つして貰えなかった。でも ―― 」


助手席側の窓を少し開けると、明はそこから、煙草を放り投げた。


「悔しいけど、僕はあの人が好きなんだ。あの人から離れられない。どうしてもね」


「そりゃ、親なんだから。仕方ないだろう」


「あの人に限らず、僕が好きになる人は皆、僕より他の誰かが好きなんだ」


圭介は、思わず溜息をつく。

それから、彼女の右手を掴み、指を絡ませる。


「また始まった。明は、いつもそれだ」


「圭介だって…」


「俺が、何よ」


「例の子とか」


「ああ、(たくみ)のことか」


「付き合ってるんでしょ?」


「まあな」


「ほら、やっぱり!」


「隠してた訳じゃないよ。ただ何て言うの、今は遠恋だからさ」


「だって、彼氏は彼氏じゃない」


「そりゃそうだけど。…なぁ、ひょっとして、俺のことも好き組に入れてくれてた訳?」


「優しくしてくれる人なら、僕は誰だって好きだよ。坂口さんも、馨さんも」


「銘さんもな」


「そう。銘さんも。ただ、それが、そういう好きなのかどうかなんて、僕には判らない」


「知ってる。お前はまだ、本気で人を好きになったことがない奴だから」


「僕には一生、縁がないよ。いっそ、知らずに終わりたいよ。いや、終われると思う。多分ね」


「多分、な」


明の真似をして、彼も窓から吸殻を投げた。


「な、明。悪いことするのは快感だろう?」


「快感と、後ろめたさと」


「それが恋だよ」


「は? 意味判んない」


「今に、知ることになるよ。相手が誰か、俺には見当も付かないけど」


「少なくとも、圭介じゃないね」


「そう。間違いなく俺じゃない。だからこうして、お前を甘えさせられるんだけどな」


そう言うと。

彼は、路肩に車を停め、エンジンを切った。

それから、無言でシートベルトを外す。

抱き寄せると、明は抵抗せずに、身を任せてくる。


助手席のシートベルトを外し、圭介は、あらためて彼女を抱き締めた。

薄いTシャツを通して、彼の温もりが伝わってくる。


「…ほんっと、お前は素直じゃない」


呆れたように、圭介が言う。


「泣け、(わめ)け。辛い時はさ。誰にでもあるんだぜ、そういうの。恥ずかしいことじゃない」


「…泣いたことないんだ。ここ数年」


「そりゃ、これだけ突っ張って生きてきてりゃな」


彼の腕に抱かれながら。

明は、珍しく混乱していた。


何が悲しくて、何が辛いのか。

誰が好きで、誰が嫌いなのか。

彼女には、判らなかった。


この日まで。

明にとって、自分を取り巻く人々は皆、均質な存在だった。

男女の別なく、平等に、愛すべき対象だった。

その中の誰かが、特別な存在になることなど、

これまでの彼女には、想像すらつかなかった。


しかし。

圭介に言われて、ようやく気付いた。

意識的に、銘と離れてから。

帰る場所を失ったような寂しさに、襲われていることに。


その一方で。

別れ際の銘の姿を、何度も思い出しながら。

そのことを、辛いとも悲しいとも感じることの出来ない自分を。

明は、観念して受け入れるしかなかった。

 

 

 




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