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青の旋律  作者: 一宮 集
18/55

第十八話

白いロールスクリーンを通して差し込む、街灯の薄明かりの中で。

二人は何度も、口付けを交わした。

そのうちに。

抑えは、利かなくなってくる。


早まる鼓動に、息苦しさを感じながらも。

彼の身も心もすでに、彩を欲していた。

より深く、より鮮明に、彼女と交わりたい。

そんな思いが、彼を突き動かしていた。


貪るように唇を重ねながら。

彼は、彩の体をよりきつく抱き、細い肩紐を引き下ろす。

露わになった胸元から、淡いピンクのレースが覗く。

合間に漏らす彩の吐息が、速い呼吸が、一層思いを募らせる。


さらに求めようとする彼の手を、彩は、咎めるように掴んだ。

熱い口付けの解けた隙に、彼女はその耳に囁く。


「銘さん、駄目…」


その言葉に。

銘はやっと、我に返った。


唇を離して彩を抱き締めると、彼は、必死に呼吸を整えようとする。

柔らかな髪を撫で、額に優しく唇を付けながら。

込み上げてくる愛しさに、今にも溺れてしまいそうになる自分を、踏み止まらせるのがやっとだった。



その腕に抱かれ、服を整えながら、彩は呟く。


「…銘さん」


「うん」


「この先、何があっても…わたしを受け入れてくれる?」


「そのつもりだよ」


「ねえ、本当のことを知っても、わたしを離さないで…」


「絶対に、離さないよ」


「あなたは酷く驚くと思うけど、お願いだから、嫌いにならないで…」


「大丈夫。何があっても、彩さんを嫌いになったりしない。約束する」


彩の手が、自分の背をきつく抱くのが判った。

彼女もまた、心の中で戦っているのだと、彼は思った。

その葛藤と痛みとが。

まるで、自分のことのように感じられた。






車を、店の前に置いてから。

二人掛かりで、その絵を搬入する。

注意深く階段を降り、無事に店内に辿り着いてから、あらためて梱包を解く。

彩の言葉通り、カウンターの奥にある扉と食器棚との間の壁に、丁度それは収まった。


「凄いね。ぴったりだ」


銘は、素直に感心した。


「目測には自信があるのよ、仕事柄」


彩は、満足そうに言う。

こぼれるような笑顔を向けたまま。

そんな彼女を、銘は心から愛おしく思った。


「…何か、飲んでいく?」


「ううん。出来れば、早目に帰りたいの」


「判った。じゃあ…」


そう言って、カウンターから出ようとした時。

突然、電話が鳴った。


はっとしてディスプレイを見ると、明の携帯からだった。

ちょっと迷ってから、彼は、通話ボタンを押す。


「もしもし?」


「…銘さん?」


「どうした、こんな時間に」


彩は、さり気なく視線を外して、ステージに歩いていく。

その背中を眺めながら、彼は明の言葉を待つ。

しかし。

彼女は何故か、沈黙したままだ。


「 ―― 何かあったのか?」彼は、微かな不安を覚えた。「何だか、らしくないな」


「昼間は…ごめん」


「え?」


「余計なこと言って」


「ああ、別にいいよ。気にしてないから」


「明日、行くんだよね」


「そう。やるべきことはやらないと」


「…いるんでしょう? そこに」


銘は、言葉に詰まった。

それが、何よりの証拠になることを知っていながら。


彼の狼狽を察してか。

明は、穏やかに続けた。


「丁度、店の近くまで来てたんだ。ちょっと寄ろうかと思ったら、お取り込み中みたいだし」


「いや、そんなんじゃないよ。これは…」


「いいよ。邪魔するつもりもないし、告げ口する気もないから」


「なあ、今、何処に ―― 」


そう言いかけた時。

すでに、電話は切れていた。

彼は諦めて、子機を戻す。


彩はステージから下り、銘に向かって歩いてくる。


「…修子さん?」


「いや、違うよ」


彼は、動揺を押し隠しつつ微笑んだ。


「ほら、もう、2時過ぎだよ。送っていくから」




階段を上がり、車に近付くと。

明は黙って、運転席から降りてきた。

後ろ手にドアを閉めると、二人に向き直り。

思わず足を止めた銘を、冷ややかに一瞥して言う。


「夜間の路駐は危ないって。しかも、エンジンも掛けっ放し、キーも付けっ放しで」


「それはどうも」


やっとの思いで、銘は、笑顔を返した。

しかし。

明は真顔で、にこりともしない。


「何かしてるのかと思って、ずっと待ってたんだ。だって、20分も出て来ないんだもの。心配になったから、余程店に行こうかと思ったんだけど、ひょっとしたらと思って…」


「彼女から、絵を貰ったんだ。それを運んでただけだよ」


「ま、いいけど。僕には関係ないことだし」


「また、そういう言い方を…」


彼の微かな苛立ちを知りながら、明は、全く取り合わない。

ジーンズのポケットに両手を突っ込むと、彩に向かって愛想良く微笑む。

彼女も慌てて、会釈する。

21歳の明が、24歳の彩よりずっと、大人びて見えた瞬間だった。


「じゃ、僕は帰るよ」


銘は咄嗟に、その腕を掴む。


「送っていくよ」


「いいよ。大した距離じゃないし。圭介のところへ行けば、チャリもあるから」


そう言って、彼女はやんわりと銘の手を外し、くるりと踵を返す。

二、三歩歩き出してから。

思い出したように、明は振り返る。


「そうだ、これ」


ポケットから何かを探り出すと、銘に放って寄越す。

彼の右手はそれを、反射的に受け取った。


「店の鍵じゃないか」


驚きを隠せずに、銘は言う。

明は、肩を竦めた。


「返すよ」


「どうして」


「言わなきゃいけない?」


彼は、戸惑ったまま、口をつぐんだ。

そんな銘に向かって。

明は少しだけ微笑んでみせた。

それからあらためて、二人に背を向ける。


振り返りもせず、去っていくその背中を。

彼は、黙って見送っていた。





車が走り出すと。

彩は、呟くように言った。


「…ごめんなさい」


「どうして謝るの」


「わたしのせいで…」


「彩さんのせいじゃない。あいつはそれ程、心の狭い奴じゃないから。気にすることないよ」


「彼女、ピアノの人でしょう?」


「そう」


「綺麗な人。わたしには、金色の光に見えた。何だか、眩くて温かい…」


「うん、確かに、そんなイメージがあるな。名前の通り」


答えながら。

彼は、明に見放されたような寂しさを感じていた。

この5年間で。

こんなことは、初めてだった。



その喪失感を振り切るように、彼は、アクセルを踏む。

たちまち背後に流れゆく風景に目をやりながら、煙草に火を点ける。

そう。

誰が何と言おうと。

もう、後戻りなど、出来はしないのだ。


 

 

 

 

 

 

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