第十七話
憂鬱な気分のまま、彼は仕事を続けた。
日曜なので、23時で看板を消す。
ライブもないのに、何故か来客が多かった。
年に数回、こんな日がある。
シャワーを浴び、身支度を整えながら。
彼は、明の言葉を思い出していた。
あれは、本当に音楽の話だったのだろうかと。
ひょっとして彼女は、自分のことを ――
(まさか。あり得ないな。何を自惚れてるんだ、俺は)
彼は首を振って、その馬鹿げた憶測を打ち消した。
同じ業界の人間と関係を持たないというのが、彼のポリシーだった。
ミュージシャン同士だと、上手くいっているうちはいいが、破綻した際に、何かと面倒が多いからだ。
戸締まりをし、駐車場まで歩いていく途中。
見上げると、中空には、明るい月がかかっていた。
昨日までの雨は嘘のように上がり、高層ビルの隙間からは、星空が覗いている。
忙しさにかまけて、空を見ることなどすっかり忘れていたことに、
彼はこの時、ようやく気付いたのだった。
日曜の夜なので、道路は恐ろしく空いていた。
そのため、銀座まではすぐだった。
店に入ると、彩はソファーに腰を下ろし、彼を待っていた。
「こんばんは、銘さん」
彼女は、いつになく晴れやかな笑顔を見せた。
「こんばんは。ごめん、遅くなって」
銘も、笑顔を返す。
「大丈夫。こっちもさっきまで片付けてたから」
「運ぶのはどれ?」
銘が尋ねると、彼女は黙って、"melodia blu"を指差した。
「これだけ?」
「あとは明日、専門の業者さんが運んでくれるから」
「遠慮することないのに」
「ううん。本当にいいの。それに…」
彩はつと立ち上がり、表面にそっと触れてみる。
「これは、銘さんにあげたいと思って」
「え?」
「貰ってくれる? 迷惑でなければ」
彼は、うろたえた。
展示中のその絵には、少なくとも、6桁の値段がついていたからだ。
「そんな…買うならまだしも、ただで貰う訳にはいかないよ」
「元々、銘さんのために描いたものだから。もし、嫌いじゃなかったら」
「まさか、嫌いだなんて。凄く好きな絵だよ。でも…」
「時々は、思い出して欲しいの。銘さんのためにわたし、何もしてあげられなかったけど…」
銘は、はっとして彼女を見た。
思いがけず真剣な眼差しが、彼を捕らえてくる。
「…どういうこと?」
「今日で、最後にしましょう」
彼女は、懸命に笑顔を作った。
それから、何度も練習を重ねたかのように、話し始めた。
「こういう状態は、やっぱり、お互いのために良くないと思う…」
やや俯きながら、彼女は続ける。
「あなたには、修子さんがいる訳だし、わたしだって、夫のある身だもの。再会してから一ヶ月、毎日会えたこの二週間、素敵な夢を見させて貰ったから」
「……」
「わたしは欲張りだから。続けていたらきっと、これ以上のことを望んでしまうと思う。そうしたら、必ず、悪いことが起きる。そんな気がしてならないの…」
予想外の出来事に、彼は、言葉を失った。
立ち竦みつつ。
突然のことに混乱する思考を、必死に立て直そうとする。
「要するに ―― 俺とはもう、会えないって?」
「……」
「これで、終わりにしたいってこと?」
見詰め返すと。
彩は、すっと視線を外した。
その表情から。
彼女の苦悩が察せられた。
この日を迎えるまでの懊悩と逡巡さえも、彼には容易に想像が出来た。
恐らく。
彼女は、銘の将来を思い、一人でずっと悩んでいたのだろう。
しかし。
彼は、言わずにはいられなかった。
「…彩さん」
「……」
「それは、本心なの?」
「……」
「本心じゃないとしたら。…今更、そんなこと言わないで」
「…でも」
キャミソールの肩紐を、彼女は無意識に引き上げた。
それから、両腕を掻き抱く。
押し寄せる不安から、我が身を守るかのように。
「 ―― 自分が怖いの。このままで行くと、何もかも放り出してしまいそうで。あなたのことも、彼女のこともきっと、傷付けるに決まっているもの…」
銘は思わず、溜息をついた。
それから、おもむろに口を開く。
「ねえ、彩さん」
「うん」
「俺…明日、修子に会いに行くんだ」
「え?」
「正式に、婚約を破棄するために。電話ではもう、伝えてあるけど」
銘は、自分の発した言葉が、想像以上に冷たく響いていることに気付いていた。
しかし、もう黙っている訳にはいかなかった。
彩は、目を細めて、彼を見ている。
「…嘘でしょう?」
「本当だよ。明日の朝の飛行機で、札幌へ行ってくる。明日から三日間かけて、今後のことを話し合ってくるよ」
「どうして、そんな…」
「前々から、何とかしなければいけないとは思ってたんだ。彼女とは年も違い過ぎるし、考え方も、生き方も違ってきている」
「……」
「以前ならそれでも、何とかやっていけると思ったよ。でも、今は ―― 事情が違ってきてるんだ」
「……」
「誤解して欲しくないけど、あなたのために、修子と別れる決心をした訳じゃないんだ。これはあくまで、俺と彼女の問題だから」
彩は、じっと彼の目を見据えていた。
それから。
堪えかねたように、彼に歩み寄る。
「銘さん…いいの、それで?」
彼女の声は、掠れていた。
「いいんだ。もう、決めたことだから」
「後悔、したりしない?」
彼は、彩の瞳を真っ直ぐに見詰めた。
それから。
ゆっくりと、首を横に振る。
彼を見詰めながら。
彩は、意を決したように、壁際のパネルに手を触れた。
天井の照明が、一つずつ消えていく。
腕の中に、小さな体が滑り込んで来た時。
銘は迷わず、その可憐な唇を求めた。
決して、後悔などするものか。
そう、何度も自分に言い聞かせて。