第十六話
戸惑う彼を。
明はなおも、真っ向から見詰めてくる。
その真剣な眼差しから、彼は、逃れられそうもない。
その時。
「うん、お邪魔かな?」
ドアの向こうから、聞き慣れた声がした。
明が振り向くと、そこに、馨の人懐っこい丸顔があった。
「いや、まさか。お邪魔だなんて」
動揺を隠しつつ、銘は、スツールを勧める。
「随分、熱心に口説いてたみたいだからな」
明の頭にぽん、と手の平を乗せ、馨は笑顔を見せた。
銘は、必死に弁明する。
「いや、ですからあれは主語が抜けてまして。音楽の話です」
「あ、そう言えばそうだった。ベースがって言うの、忘れてた」
「普通に聞けば、愛の告白だったぞ」
スツールに腰掛けながら、馨が笑う。
明は、ぷいと横を向いた。
「さっきも言ったけど、僕が好きなのは、銘さんのベースだけだよ」
「本人も、いい男じゃないか」
「あのね、馨さん。僕は、誠実な人が好きなんだ。誰がこんな浮気者なんか…」
その口調に。
銘は、ぎょっとした。
「おい、明。何だよその言い方…」
「浮気者か。まあ、確かにそうだな」
馨はにこにこしながら、明の言葉を肯定した。
銘ははっとして、彼を見る。
「実は、修子ちゃんから電話貰ってな。今日は、その件で来たんだ」
「馨さん、それは…」
「まあいいから、ちょっと出て。ここへ座れ」
「僕、席、外そうか?」
「いや、明。お前も一緒にいてくれ」
銘は覚悟してカウンターを出、馨の隣に腰を下ろした。
何を言われるかは、すでに判っていた。
明は黙って、自らビールを注ぎに立つ。
「…なあ、銘」
「はい」
「別れたんだって? 修子ちゃんと」
彼は、答えられなかった。
修子が承諾しない限り、別れたとは言えないと思っていたからだ。
「いえ、まだです。…向こうにいる間だけ、離れてみようとは言いました」
「なるほどな」
馨は、胸ポケットから煙草を取り出して、火を点ける。
深く吸い込んでから、再び話し始める。
「俺以上に、カミさんがパニクっててさ。ほら、一応俺達は彼女の後見人だから。てっきりお前等は、このまま一緒になるもんだと信じてたからさ。寝耳に水で」
「すみません、ご迷惑を」
「いや、謝るなよ。それより、話し合ったのか? 今後のこととか」
「…いえ、まだです」
「だろうな」
銘が置いたカップに、彼は静かに口を付けた。
「こういうことは、片方の話ばっかり聞くもんじゃないって、俺はうちの奴に言ったんだ。お前がそういうことを言い出すからには、余程の理由があるんだろうって、俺は思っててさ」
「……」
「ぶっちゃけ、どうなのよ。何か理由があるんだろう?」
「女とか」明が、口を挟んだ。
「へ? 女だって? 銘、そうなのか?」
彼は、ばつが悪そうに目を逸らした。
それを見て、馨は確信したようだった。
「冗談だろう? 信じられんな。よりによって、堅物のお前が」
「免疫ないから、余計手に負えないんだよね」
「明、悪いけど黙っててくれないか。知りもしない癖に」
銘は、ぴしりと嗜めた。
ビールを呷りながら、彼女は涼しい顔だ。
「判ったよ。黙ってりゃいいんでしょう。もう、おっかないな」
「…それで、修子ちゃんとの婚約を解消することにしたのか?」
「正確には、それだけが理由じゃないです」
銘は一度口をつぐんで、頭の中を整理した。
それが、言い訳でないかどうかを確認しながら。
「前から思ってました。年齢差にしろ、育った環境にしろ、無理があるんじゃないかと。それに加えて、遠距離ですからね。彼女は遊びたい盛りだし、まだ学生生活も始まったばかり。俺がいるせいで、いろいろな出会いを無駄にして欲しくないんです。もし良縁があるとしたら」
「じゃあ、例えばな。…俊明と縒りを戻してもいいってことか?」
その名を耳にして。
銘は一瞬、言葉を失った。
しかし。
こう、答えるしかなかった。
「…仕方ないです。彼女が望むなら。俺には、引き止める権限なんかありません」
「そうか。判った」
馨は、煙草の火を揉み消した。
それから、おもむろに訊く。
「で。お前を狂わせてるのは誰だ?」
「人妻だよ」と、明。
「だから、黙ってろって…」
銘は思わず、声を荒げる。
しかし。
彼女は、少しも怯まずに言う。
「しかも、槙村英の奥さん。凄いね。美術界をも巻き込んだ、一大スキャンダルだ」
クールな明の物言いに。
二人は、静まり返ってしまった。
その沈黙にいたたまれず。
銘は、ターンテーブルを回す。
"Sonny Stitt Plays Arrangements of Quincy Jones"のB面、"If You Could See Me Now"が、JBLから溢れ出してくる。
スティットが奏でる極上のバラードに、彼等はしばし耳を傾けた。
それから。
銘は、ゆっくりと口を開いた。
「…彼女は、ただの友人です。修子の件は、彼女とは関係ありません」
「まあ、そういうことにしておくかな。お前も大人なんだし。俺は今更、うるさいことは言いたくないよ。こればっかりはな」
冷めた珈琲を啜ったあと、馨は、深い溜息をついた。
「でも、銘。まさか、電話一本で済まそうなんて、思ってるんじゃないだろうな」
「いえ。何れ修子には、きちんと説明したいと思ってはいるんですが…」
そう言うと。
銘は当惑して、視線を落とす。
その胸中を察したかのように、馨は言った。
「 ―― 会って来い」
「え?」
「行って、ちゃんと話してこい」
馨は、ポケットの中から一枚の封筒を取り出した。
カウンターの上にそれを置くと、銘の目を見据えて言う。
「明日の朝8時、羽田発新千歳行きだ。修子ちゃんには、俺から連絡しておいたから」
銘は、顔色を変えた。
幾ら何でも、急な話過ぎる。
「そんな。馨さんにそこまでして戴く理由がありませんよ」
「何言ってんだ、馬鹿!」
柔和な馨から発せられた、思いも掛けない言葉に。
銘は、はっと息を呑んだ。
「言ったお前はいいかもしれないが、今、彼女がどんな気持ちでいると思ってる? 何度かけたって、電話すら出ないそうじゃないか。何考えてんだよ、お前は!」
「……」
「それを、何れだぁ? それまで彼女は、一人で悶々としてなきゃならないんだぞ? 全く、どうしたんだよ、銘。お前の想像力は。一体、何処に行っちまったんだよ?」
彼には、一言もなかった。
馨の言う通りだった。
しばらく。
カウンターの上に置かれたチケットを、銘は眺めていた。
やがて。
彼は決心したように、その封筒に手を伸ばす。
「…判りました。今回は、お言葉に甘えます」
「ついでにちょっと、羽を休めて来い。ここのところ、お前はおかしかったからな」
「……」
「北海道はいいぞ。人間の手の及ばない自然が残ってる。俺は釧路生まれだけど、今でも、あの大地に戻れば、小さいことなんかみんな吹き飛んじまう気がするくらいだ」
ようやく笑顔を見せた馨の前に、明がさっと右手を出す。
「何」
「あれ、僕のは?」
「何で俺が、明の分まで出さなきゃいかんのよ。お前はしょっちゅう行ってるだろう?」
「前回ツアーで行った時も、観光する暇なんかなかったんだ」
「もう、すぐそれだ。油断も隙もねぇな。坂口に頼めよ」
「無理だって。坂口さん、ケチだしさ」
二人は、仲良く小突き合いながら、くすくす笑っている。
しかし。
銘は、笑う気にはなれなかった。
銀座での個展は、今日が最終日だ。
そのため彼は、閉店後、彼女を迎えに行く約束をしていた。
それが終われば、例え会いたくても、会えなくなる。
彩が、連絡先を教えてくれない限り。