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青の旋律  作者: 一宮 集
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第十五話

正午。

シャッターを押し開けると、中から、ピアノの音がした。

明だな、と彼は思った。



現在。

この店の合鍵を持っているのは3人。

銘と、オーナーである馨、それと明。

赤坂の自宅にスタインウェイのセミコンがある癖に、何故か彼女はこのピアノが気に入っていて、時間があると、こうして弾きに来るのだ。



階段を降り、カウンターに入る銘を、彼女はちらっと一瞥した。

弾いているのは、アルフレッド・コルトーの練習曲だ。

指をスムーズに動かすためのシステマティックな音階を、明はメトロノームに合わせ、飽くことなく、淡々と繰り返し弾いている。


「よく続くよな。ほんと、感心するよ」


半ば呆れつつ、銘は言う。


「やってると、随分違うんだ。銘さんもやる?」


「冗談。俺はそういうの向かないから」


「それだから、いつまで経っても勘が戻らないんだよ」


ピアノを弾きながら、明はくすくす笑う。

思いがけず、痛いところをつかれてしまった。


「…じゃあ、久々にお手合わせ願おうか」


「へえ、珍しい。弾く気になったの」


「まあね」


彼は、ステージの脇に置いてあるウッド・ベースを手に取った。

ワセリンを取り、慣れた手付きで指先に擦り込んでいく。


チューニングが済むと、明は幾分早目のテンポで、"So What"のイントロ・パターンを弾き始める。


「うわ、いきなりそれか」


銘は、思わず苦笑した。


「リハビリには持ってこいでしょう?」


明は、悪びれずに言う。

そして、軽妙なタッチで、テーマを弾き始める。

彼の指は迷うことなく、そのラインを追っていく。

明が叩き出すモダンな旋律に、銘のベースが絡む。

この二人の手にかかれば、こんな単純なコード進行の曲でさえ、珠玉の一品になる。


ベースとしての本分である、リズムとルートのサポートを守りながらも、時にアグレッシブに、時に問い返すように語りかけてくる彼のベースを、明はこよなく愛していた。

その揺るぎのないビートと音程があるからこそ、自分を自由に解き放つことが出来るのだ。



久し振りにベースに触れ、生の音楽を紡ぎ出しながら。

彼は明らかに、自分の中の何かが変化したことに気付いていた。

以前から悩みの種だった、引きずるような重さはすでになく、軽やかに息が出来る感覚がある。


(わたしが、蘇らせてあげる)


彩の言葉を、彼は思い出していた。

彼女が言ったことは本当だったんだな、と彼は思った。

でなければ。

こんな風に、体が言うことを聞く筈がない。



明の手によって、曲が新たな展開を進んでいくにつれ。

弦の振動を、体内のビートを心地良く体感しながら。

彼は、やはり自分はこの世界でしか生きられないと、あらためて思った。

より深い部分で心を通わせ、魂を共有し、一つの音楽を作り上げていく快感。

これは、誰とでも分かち合えるものではない。

この時。

飯田(いいだ)(あきら)というピアニストの実力をもまた、彼は思い知ったのだ。




演奏は、40分以上続いた。

デュオだというのに、それ以上の手応えと興奮とがあった。

明に導かれるままにエンディングを迎え、呼吸を合わせて最後の一音を弾ききったあと。

二人はステージ上で目を合わせ、声をあげて笑い始めた。

何故だか。

おかしくて、堪らなかったのだ。


「もう、銘さんには敵わないな」


「何言ってるんだ。明のあれは反則だろう」


「だって、普通にやってたら何だか舐められてる気がしてきてさ」


「そんなの、お互いさまだよ。俺だって気が気じゃなかった」


スツールにベースを立てかけると、銘は彼女に歩み寄った。

明もまた立ち上がって、彼とhugをする。

やや汗ばんだ体を抱き締め、乱れた呼吸を整えながら。


「お前はやっぱり、凄い奴だよ」


「何、今頃気付いたの?」


「ライブじゃ、実力の半分も出してないだろう?」


体を離してから、彼は笑顔で、その肩を叩いた。

それからステージを降り、カウンターへ向かう。


「何か飲む?」


「ビール」


「冗談。まだ昼だぞ?」


「今日はどうせ夕方からだから。それまでには抜けるでしょう」


「全く、困った奴だな」


肩を竦めつつ、銘は、彼女のためにピスルナーを用意する。

彼の後ろ姿を眺めたあと。

ピアノの鍵盤を拭きながら、明は、独り言のように呟いた。


「…ベースが良くないからだよ」


「え?」


「僕は、なかなか本気を出せないんだ。銘さんぐらいの人じゃなきゃ」


彼は驚いて、明を見る。


「嘘だろう? 葵はよくやってると思うよ。ここ数ヶ月で随分変わったし」


「それがまずいのさ」


ピアノの蓋を閉め、スポットを消してから、彼女は指を振りながら、カウンターのスツールへ座った。

それから、大きな溜息をつく。


「葵は確かに安定してるよ。良くも悪くもね。その分、煽られることも触発されることもない」


「そうかな? 聴いてる分には、そうは思えないけど。耳もいいし、勉強熱心だし…」


「ただただ無難にこなしてるって感じで、燃えもせず、冷めもせず。物足りないよ」


「へえ、意外だな」


彼は、ピルスナーに生ビールを満たし、明の前に置く。

彼女は無言でそれを取り、一気に流し込む。

それからまた、溜息を一つ。


「坂口さんが連れて来ちゃったからさ。橋元バンド辞めさせて。今更放り出す訳にいかないよ」


「ああ、そうか」


銘は、腕組みした。



松尾(まつお)(あおい)は、仙台出身のベーシスト。

高校1年からベースを始め、大学入学をきっかけに、都内のライブハウスで活動を始めた。

やがて、ピアニストの橋元(はしもと)由香里(ゆかり)に見出され、在学中にプロ・デビューした逸材だ。

東北の人間らしく口数は少ないが、実直で誠実な人柄であり、

なかなかの美青年故、ファンも多い。

それを。

明のマネージャーである坂口が、わざわざ頭を下げて引き抜いてきたのだ。


彼は銘を慕い、時間の許す限り、個人的に教えを請うほどの勉強家だ。

メンバーとの仲も良く、演奏だって決して悪くはない。

むしろ、若手の中ではファースト・コールだろう。


だからこそ。

明の意外な言葉に、銘は戸惑いを隠せなかった。




「愛人だったって噂だよ。橋元さんの」


「まさか」


彼はそれを、一笑に伏した。


「俺にはそうは思えないな。ここまでやって来れたのは、あくまで葵の実力だよ」


「まあ、どっちでもいいけど。お陰で僕は、今でもあのオバサンに恨まれてるんだから」


「気にするな。この業界じゃ、よくあることだから」


新たにビールを注ぎながら、彼は笑った。

明には、それが不満だったようだ。


「笑い事じゃないよ。結構深刻なんだから」


「ごめん。そうは見えなくてさ」


「銘さんから、それとなく指導してやってくれない?」


「指導?」


「その、メンタルな部分というか、感覚をさ。無理かな?」


彼は明の前にビールを置き、しばし考えた。


「うーん、明が焦る気持ちも判るけど、そういう部分は、指導の仕様がないな。天性のものもあるし、第一、経験を積んでいくうちに判ってくることだから」


「銘さんが弾いてくれれば、何の心配もないのに」


「また、簡単にそういうことを言う」


「本気だよ。僕は初めて会った時から、銘さんのベースが好きなんだ」


彼は、反射的に明を見た。

その大きな瞳が、真っ直ぐに自分を見据えてくる。


「銘さんじゃなきゃ、駄目なんだ。知ってる癖に」


「買い被り過ぎだよ。明と俺が、釣り合う訳ないだろう」


「すぐ、そういう言い方する。僕には、銘さんが必要なんだ。銘さん以外、考えられないよ」


「は? なあ、明、ちょっと待って…」


「あのさ、前からこうして頼んでるのに、どうして受け入れてくれないの? 僕がこれほど惚れ込んだ相手なんかいないのに。何か僕に不満でもあるの?」


彼は、明のただならぬ剣幕に慌てた。

慌てながら、思い出していた。

以前から。

レギュラー・メンバーとして、明のユニットに参加してくれるよう、

何度も頼まれていたことを。


しかし。

長年第一線を離れていたことと、身体的な不安とが重なっていたこともあり、

彼はそれに対して、yesとは言えなかったのだ。

 

 

 

 

 

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