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青の旋律  作者: 一宮 集
14/55

第十四話

正午から。

予定通り、リハーサルが始まっていた。



慌ただしく走り回るスタッフの只中で、本多は譜面を手にしつつ、神経質そうに煙草をくゆらせている。


「コーダからケツまでストレート。リピートはなし。リフだけ通す」


ベーゼンドルファーのフルコンに向かった本多が、上にある灰皿で煙草を揉み消すと。

間髪を入れず、アランのカウントが飛ぶ。

うねるようなリズムの中、本番さながらの、気迫溢れる演奏が始まる。

スタッフの多くも手を止めて、ステージの上を注視するほどだった。


言葉通り、リフだけを浚うと。

本多はピアノから立ち上がり、両手を振って演奏を中断させた。


「OK、OK。そんな感じでいい。アラン、今のタイミングを忘れるな」


マッチョなドラマーは、親指を突き出して笑顔を見せる。


「松村、ダブル・バーの次のシンコペ、どうしても遅れるぞ。気を付けろ」


「はい、すみません」


そこへ、マネージャーの河野が駆けつける。


「お疲れさまです。そろそろ、最後の調律が入りますので」


「そうか。じゃあもういいな。さて、まだ時間があるけど。飯でも食いに行くか」


珍しく晴れやかな笑顔を見せながら、彼は煙草を胸ポケットに入れ、ジャケットを羽織る。

その背中に。

河野がおずおずと声をかけてきた。


「本多さん、お疲れのところ、すみません」


「どうした?」


「あの、お会いしたいという方が…」


その言葉に。

本多は、不愉快そうに眉を顰めた。


「どうせ、例の何とか言う企画屋だろう。そんな暇あるか」


「いや、違うんですよ」


額の汗を拭いつつ、河野は後ろをちらっと振り返る。

その視線の先に目をやった彼は、思わず息を呑んだ。


「…驚いたな。まさか君と、こんなところで会えるなんて」


修子は、ちょっとだけ微笑むと、深々と頭を下げた。


「ご無沙汰してました、本多さん」


「変わらないな。相変わらず…可愛いよ」


彼は嬉しそうに、修子を抱き締めた。

それから、河野に向かってつっけんどんに言う。


「先に行ってろ。すぐ行くから」


「あ、あの、本多さん」


「30分だけ時間をくれ。連中には言うなよ」


戸惑いつつも、河野は一礼し、通路を去っていく。

その30分の意味を、修子は咄嗟に理解した。

途端に、緊張が走る。


「元気だったかい? 何、銘に聞いたけど、大学行ってるんだって?」


「はい」


「ひょっとして、北大かい?」


「そうです」


「へえ。凄いね。君は昔から、頭のいい子だったからな」


そんな話をしながら。

彼は当然のように修子の肩を抱き、控え室の扉を開ける。

そして。

ドアが閉まると同時に、鍵がかけられる音を、彼女は確かに聞いた。


奥にあるソファーに、本多は彼女を座らせた。

それから愛おしそうに、彼女の髪を撫でる。

覚悟はしていたものの。

心臓は、嫌でも高鳴ってくる。


「…銘とは、上手くいってるのか?」


彼女は、答えなかった。

本多の瞳から、黙って目を逸らす。


「そうか。でなければ、俺に会いに来る訳ないもんな」


「…会えって、言われたんです」


「え?」


「本多さんに会えって。銘さんに」


「冗談だろう? あいつがそんなことを?」


「振られちゃったんです、わたし。もう…一人にして欲しいって」


彼女は笑ってみせたが、彼は真っ直ぐに、修子を見詰めている。

その視線に、彼女は戸惑って、再び目を伏せてしまう。

あとには、息詰まるような沈黙だけが残された。


やがて。

彼の指先が、頬に触れてくるのが判った。


「修子ちゃんは、寂しがり屋だからな。何でもそうやって、一人で背負い込んで…」


「……」


「それにしても。救い難い馬鹿だよ、あいつは。君の気持ちも考えないで。別れて正解だ」


「いえ、そんなことは…」


「それで、どうする? いっそ、俺と()りを戻すか?」


「…え?」


彼女は、耳を疑った。

しかし。

いつになく真剣な彼の眼差しに、その言葉が嘘ではないことを察していた。


「そのつもりで来たんだろう? 最初から」


「まさか。わたし、そんなつもりじゃ…」


「なあ、修子ちゃん」彼は、子供を諭すような言い方をする。「俺ね、叱られるかもしれないけど」


「はい」


「あれから、色んな女と付き合ったんだ。君を忘れようとして」


「……」


「でも、忘れられなかった。それで判った。君よりいい女なんていないってことが」


「そんな…わたしなんて…」


「ほら、またそれを言う。止めなよ。もっと、自信を持つんだ」


「……」


「俺は一度も、君を忘れたことなんかない。可愛くて、ひたむきで。俺には勿体ないくらいの子だからな」


彼女は、答えられなかった。

しかし。

その優しい言葉に、涙を堪え切れなくなっていた。


不意にこぼれた涙を、彼は、見逃さなかった。

逞しい腕が、背中を強く抱いてくる。

彼の口付けを、その愛情を、今更拒むことなど出来ない。






40分後。

修子は、メンバーやスタッフと共に、すすきのの繁華街を歩いていた。


「4年前に来た時は、丁度冬で。もう、寒くて大変でしたよ」


ベーシストの松村が、溜息をつく。

本多が、それに答えて言う。


「馬鹿言え。俺の時なんかな、観測史上初の大雪で、死ぬかと思ったぞ」


「それって、戦前の話でしょう?」


「お前がまだ女も知らない頃だよ」


「また。すぐそういう言い方をする」


二人は、他愛のない会話をしながら、げらげら笑っている。

現地のコーディネーターと数人の音楽関係者は、ひたすら愛想笑い。

河野は黙って、スケジュール帳を睨んでいる。

彼等から少し離れて歩いていた修子は、その後ろ姿を、複雑な思いで見詰めていた。


レイバンのサングラスをかけ、レザーのジャケットを粋に着こなす本多は、如何にもミュージシャンという雰囲気で。

185cmの長身と端正な容貌のせいもあってか、雑踏の中でも一際目立った。

相変わらず陽気で、よく喋る。

さっきまで、あれほど情熱的にこの体を抱いていたにも関わらず、今はもう、何事もなかったかのように自分の世界にいる。

修子にはいつも、それが不思議だった。



恐らく、スタッフは皆知っているのだろう。

彼の性癖を。

そう思うと、気が塞いだ。



16歳の冬。

本多に惹かれ、請われるままに身を捧げていた頃。

彼の妻に対する優越感に、恍惚としていたこともあった。

しかし。

後日、彼女は知ることになる。

本多の愛人など、無数にいることを。

自分も、その中の一人に過ぎないことを。


それでもいいと、修子は思っていた。

彼と一緒にいられるなら、それだけでいいと。

本多もまた、彼女の一途さと純粋さに打たれ、やがて、結婚さえ口にするようになる。


20年近く連れ添った妻を捨てた結果。

彼が選んだのは、修子ではなく、音楽だった。

そして、数々の実績と栄光を引き連れて、ヨーロッパに渡ってしまった。


身も心も傷付いた彼女を癒してくれたのは、他でもない、銘の存在だった。

彼は、双方の事情を全て知りながら、何一つ口出ししなかった。

出会ってから、3年間。

彼女を見守ってくれたのは、彼だけだったのだ。



(わたしはもう、汚れてしまったな…)


通りすがりの女子高生を眺めつつ、修子は思った。

試験や部活、バイト、友達とのお喋りや、淡い恋。

そういった楽しみとは、まるで無縁の3年間。


銘の元で暮らすようになった頃のことを、彼女は思い出していた。

自分のために早起きし、朝食を作ってくれた彼。

毎朝、この髪にブラシを入れ、丁寧に結ってくれたこと。

数学や英語を教え、制服にアイロンをかけ、笑顔で送り出してくれたこと。

恐ろしい夢に魘された夜、嫌な顔一つせず、抱き締めてくれたこと。

ジャズや音楽理論を一から教え、ステージに送り出してくれたこと。

父のように、兄のように、いつも傍にいてくれた彼のことを。

今更、忘れられる筈がない。



あの日に帰りたいと、修子はあらためて思った。

失ってみて初めて、彼の優しさが身に沁みていた。

これまでは、当たり前のように思っていた彼の愛情を、受ける権利などないと知りながら。

彼に、詫びたかった。

自分は何て馬鹿だったのだろうと。

そして、告げたかった。

今でも、あなたを愛していると…




「修子ちゃん?」


本多の声に、はっと顔を上げると。

彼は微笑みつつ、肩を抱いてくる。

大きなホールでのコンサートを控えているせいか、いつになく上機嫌だ。

そして、耳にこう囁いてくる。


「その服、いいね。凄く似合ってる」


「ありがとうございます」


「さっきは、素敵だったよ。やっぱり、君じゃなきゃ駄目だな、俺は」


彼女は、何と答えていいか判らなかった。

束の間の情事を思い出して、耳まで血が昇ってくる。

それでいて。

彼の好みや誘い方を、いまだに熟知している自分が嫌だった。



肩にかけた手を離すと、本多はあらためて言った。


「今日は、最後までいてくれるんだろう?」


「え、はい…」


「打ち上げもあるから、ずっといればいい。遠慮することないよ」


「あ、でも…お邪魔じゃないですか?」


「まさか。もし良ければ、客席で聴いてればいい。最前列を用意させるよ」


「いえ、そこまでして戴く訳には」


「俺がいいって言ってるんだから。な、河野?」


「はい、もう手配してありますので」


若いマネージャーは、緊張した面持ちで言う。

その、真面目そうな横顔を眺めながら。

修子は、前のマネージャーのことを懐かしく思い出していた。



不器用でおっちょこちょいな酒井は、本多の学生時代からの友人でもあった。

彼がレーベルを移籍する際に、自から希望して職を辞した。

血気盛んな頃から彼を支えてきた人間だけに、長年の心労が祟ったのだろう。

修子は、そんな酒井が好きだった。

怒鳴られても殴られても、本多の音楽を愛し、身も心も捧げてきた男。


しかし。

酒井が修子に勧めたのは、本多ではなかった。


「修子ちゃん、いい子だから、こんな風に傷付いていくの、俺、見てられなくてさ。銘は、いい奴だよ。俊明(としあき)なんかよりずっと。修子ちゃんのこと、大事にしてくれるよ」


そう言って。

酒井は、前歯の欠けた口で、豪快に笑ってみせた。

それが。

つい、昨日の出来事のように感じられる。



本多と肩を並べて歩きながら、修子は時々、携帯を開いてみる。

着信はなかった。

あの夜から一度も、銘は、彼女と話そうとはしない。

何度かけても、電話に出ることすらなかった。

そのことが、彼の不在が、一層寂しさを募らせる。



暮れかけていく札幌の空の下。

かつて、自分を捨てた恋人に肩を抱かれ。

自分は一体、何処に行くのだろうと、修子は思っていた。

絶望と自棄とがないまぜになった状態で。

忘れ得ぬ人の面影を、胸に押し込めたまま。

 

 

 

 

 

 

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