第十三話
気付くと。
彼は、深い森の中にいた。
天を突く針葉樹の頂からは、僅かに、真っ青な空が覗いている。
湿った腐葉土、澱んだ水、苔や樹木が発散する深緑の匂い。
濃密な森の息吹に包まれて、時にむせ返りそうになりながら、彼は足を進める。
小枝を踏みしめるたび、ぱきぱきと乾いた音が響く。
奥に進むにつれ、緑は一層深くなる。
それでも彼は、歩みを止めることはなかった。
その先に、求める何かがあるような気がしていたからだ。
やがて。
銘は、足を止めた。
目の前には、巨大な胡桃の古木が聳え立つ。
幹の直径だけで、15mほどもあるだろうか。
天を覆い尽くさんばかりの勢いで、四方に太い枝を伸ばしている。
振り仰ぐと、鬱蒼とした葉を透かして、木漏れ日がきらきらと降って来るのが見えた。
それにも関わらず。
地面はじっとりと濡れていて、とても歩けそうにない。
暗さに目が慣れた頃。
彼は、その木の根元に、誰かがいることに気付いた。
はっとして、近付こうとしたのだが。
何故か、足は動かない。
気は逸るものの、体は動かず、声すら出せなかった。
その時。
遥か上空から、一粒の実が落ちてきた。
彼が反射的に身をかわすと、それは肩を掠めて視界から消える。
しかし。
辺りには、物音一つしない。
聴覚が麻痺するほどの静寂の中。
緑の実は、飲み込まれるかのように、苔むした大地に消えていく。
思わず息を呑み、身動きを止めた彼の周囲に。
胡桃の実は、一つ、また一つと降ってくる。
そして。
その実は全て、丸い穴を穿ちつつ、地面に落ちていく。
何の抵抗もなく、すうっと吸い込まれていくのだ。
まるで、底なし沼に消えていくように。
恐る恐る、銘は、穿たれた穴の一つを覗きこんでみた。
それは、彼の想像を絶する深さのようだった。
不意に。
本能的な恐怖が、足元から湧き上がってくる。
その光景に慄然としながらも。
彼は、胡桃の大木に寄り添っている人影に目をやった。
時折こぼれる木漏れ日の中で、栗色の髪がきらりと光る。
彼は、呼びたかった。
彼女の名を。
しかし、声が出ない。
彼女は彼を、ちらりと一瞥する。
それから。
白い服の裾を残して、さっと身を翻してしまう。
(まずい)
彼は、焦りを感じた。
そのため。
ようやく恐怖を振り切って、足を踏み出そうとした。
その時。
足元が、大きく揺らいだ気がした。
そのまま、漆黒の闇に吸い込まれる。
冷たく深い地の底に、何処までも真っ直ぐに落ちていく感覚。
はっとして目を覚ました時。
全身に、びっしょりと汗をかいていた。
あの、海の夢を見た朝と同じように。
肩で息をしながら、彼は考えた。
あそこにいた女性は誰なのか。
彩なのか、修子なのか。
それすらも。
彼には、判らなかった。
ベッドを抜け出して、シャワーを浴びていても、夢の感触は消えなかった。
滴る熱い湯に身を任せながら、銘は俯いて、溜息をつく。
(あの夢はきっと、罰なのだろう。俺が、修子にしたことへの)
昨夜。
別れを切り出したことを、彼は、後悔してはいなかった。
ただ。
あまりにも急で、一方的過ぎた。
彼女の涙は、深い悲しみは、彼の胸に鋭い痛みを残していた。
しかし。
もう、後戻りは出来なかったのだ。
店の照明を点け、湯を沸かしている間に、新聞を取りに階段を上がる。
シャッターを開けると、空は、今にも降り出しそうに暗い。
憂鬱な気分のまま、ドアを閉め、階段を下りる。
新聞に目を通しながら珈琲を淹れていると、電話が鳴った。
手に取ってディスプレイを見る。
修子からだった。
しばらく、躊躇したものの。
彼は、その着信を黙殺した。
無意識に、リングの回数を数えながら。
ポットに熱い珈琲を注ぎ終わった頃。
ようやく電話は鳴り止んだ。
後ろめたさを押し殺しつつ、銘は、出掛ける準備を始めた。
洗い晒しのダンガリー・シャツに腕を通し、カーキのチノ・パンツを履く。
他には、車のキーと財布のみ。
以前から、携帯は持たない主義だ。
だから。
一旦店を離れてしまうと、もう、誰からも束縛されない。
銀座までは、車ですぐだった。
画廊の店主の好意で、傍にある駐車場を使わせて貰う。
まだ、朝の9時。
通勤客に逆行して、彼は道を急いだ。
彩はすでに、そこにいた。
ノックするまでもなく、ドアを開けてくれる。
「おはよう、銘さん…」
彼女は、小声で呟く。
何処となく、はにかんだ笑顔を浮かべて。
それを見て彼も、ようやくほっとする。
彼女はまだ自分に、好意を持ってくれているみたいだと。
「クロワッサンを買っておいたの。一緒にどうかなと思って」
ドアの鍵をかけ、カーテンを引いてから、彼女は言う。
「気を遣わなくて良かったのに」と、銘。
「いつも、美味しい珈琲を戴いてるから…」
そう言う彼女の服装は、淡い緑地に、鮮やかな黄色が散りばめられた、薄い絹のワンピース。
肩を隠すように、その上から、くすんだ紫のショールを羽織っている。
亜麻色の長い髪は、銀のかんざしでルーズに纏められ、
数束の後れ毛が、艶やかな頬にはらりと落ちている。
彼は長い間、その横顔に見とれていた。
そして。
彼女の傍にいるだけで、心が満たされていくのを感じていた。
パーテーションの奥に置かれたテーブルの上を、彩はさっと片付ける。
オープンは11時からなので、時間に余裕はある。
銘はいつものように、入り口に背を向けて座った。
その隣に、彩もまた腰を下ろす。
彼の持ってきた珈琲と、彼女が用意したクロワッサンで、ささやかな朝食が始まる。
彩は、言葉少ないながら、世界中の画家の話を聞かせてくれる。
クリムトやゴッホ、ルノワールやピカソの話を。
「彩さんは、誰が一番好きなの?」
彼は、思い付いて訊いてみた。
長い間、宙を睨みながら、彼女は考えているようだった。
「…一番好きなのは、クレーかな。ゴーギャンやマチスも好きだけど」
「なるほど。判る気がする」
「そう?」
「俺もそんなに絵は詳しくないけど。彩さんの絵は、クレーみたいに、 何処か冷たく突き放した部分と、温かい部分とが共存しているから」
「ほんと?」
彼女は珍しく、晴れやかな笑顔を見せた。
「嬉しい。そう言って貰えると」
「いや、見当違いだったらごめん。でも、前からそう感じてたんだ」
微かな日差しと、パーテーションの作る陰影の中で。
彼女は、そっと右手を伸ばしてくる。
ごく自然に、銘は、その手を取っていた。
「…銘さんのは、音楽家の指ね」
「音楽家って訳じゃないけど、今は」
「でも、音を奏でる指でしょう?」
「まあ、そうかな」
「わたしのは、酷いでしょう。荒れてて、ちっとも綺麗じゃない」
「そんなことはないよ」
「絵を描くのに一生懸命で、こういうこと、すっかりおろそかになって」
そう言って目を伏せる彼女を。
彼は、心から愛おしいと思った。
思わず。
その小さな手を取って、両手でそっと押し包む。
短く切り揃えた爪を、微かに残る傷を、確かめるように撫でながら。
彼はしばらく、その手を離そうとはしなかった。
「…銘さん」
「うん」
「わたし、本当はね、全然自信なんかなくて」
「何に対して?」
「絵を描くことに。別に、芸大出てる訳でもないし、こうやって個展開けるのも、槙村のバックアップがあるからで。わたしの実力なんかじゃないもの…」
彼は、その言葉を聞きながら、長い間、彼女を見詰めていた。
そして。
その指先を、自分の口元へ持っていく。
「俺は、芸術のことは良く判らないけど…」
そう、前置きしてから。
彩の人差し指に、彼はそっと口付ける。
「少なくとも、俺はあなたの絵から、いろいろなものを感じることが出来る。それに、何かを表現するのには、何処を出たかが問題じゃないと思う。今、何をしているか、何を伝えられるかが大事なんだ。音楽と一緒だよ。それに…」
彼は目を閉じて、その指の一本一本に、唇を当てていく。
丁度、彼女の惑いを封印していくかのように。
指輪のない小さな手を、愛おしく思いながら。
右手の指全てに口付けを終えると。
彼は、彼女の左手を求めた。
彩は黙って手を預け、その様子を見ている。
その視線の中で。
微かな胸の疼きを、彼は感じていた。
「あなたの手は、苦労してきた手だ。日向も日陰も歩いてきた、その証を感じるよ。だから、あなたの絵は、現実離れしていない。額面だけの美しさで終わってない」
「…銘さんも、そう。あなたの音は、他の誰にも奏でられないもの」
彼女は、封印が終わった指を、じっと眺めていた。
それから、彼の手を取り、同じように、唇を当てていく。
その柔らかな感触に。
彼は、今にも負けてしまいそうになる。
「俺はもう、終わった人間だよ。あとは、自分の楽しみで弾くしかないんだ」
「ねえ、そんなこと言わないで…また、わたしに聞かせて。あなたの音楽を」
「…俺に、出来るだろうか」
「出来るよ。わたしが、蘇らせてあげる。あなたが閉じ込めているものを」
そう言うと。
彩は椅子を引き、彼に向き直った。
「ねえ、銘さん、知ってる?物事には皆、落ち着くべき場所があるって」
青みがかった瞳が、彼を捕らえている。
「例えば、こんな風に。ね、指先は、指先に…」
見詰め合ったまま。
彼女は、銘の両手を取り、指を絡めてきた。
それから。
ゆっくりと、彼を引き寄せる。
心臓の高鳴りが聞こえてしまいそうな位置に、彼女の瞳があった。
「唇は、唇に…」
目を閉じる暇もなく。
彼女の唇が、そっと重なってきた。
ふわりとした柔らかさと、心震わせる温もりが伝わってくる。
長い時間。
彩の、初々しい口付けを受けながら。
痺れるような感覚を、彼は覚えていた。
唇を離すと。
彩は、彼の首に抱き付いて、肩に顔を埋めた。
「…ごめんなさい」
腕の中で、彼女は弱々しく首を振る。
「でも、わたし…銘さんが好き…」
堪え切れず。
その細い体を、彼は抱き締める。
彼女の言葉の意味を、半ば、信じられないまま。
それから。
閉ざされた、狭い空間の中で。
二人は何度も、唇を重ねた。
求め合い、きつく抱き合いながら。
これまでの空白を埋め、互いの孤独を拭い去るように。
そんな熱狂の中にあって。
彼は、修子のことを思い出していた。
2年前。
彼女とこんな風に、口付けを交わした日のことを。
しかし。
後ろめたさは、束の間だった。
「銘さん…」
自分の名を呼ぶ、彩の声に。
思いは、収斂されていった。
愛らしい呼びかけに応えつつ、彼は、ただひたすらに唇を求めた。
開店時間である、11時ぎりぎりまで。
彩が、堪え切れずに、微かな声を漏らし始めるまで。