第十二話
明の言う通り。
修子はすぐに、電話を取った。
「…銘さん?」
「ごめん。遅くなって。何かあったの?」
「ううん。特にないけど。声が聞きたくて」
「珍しいな。修がそんなこと言うなんて」
「いけなかった?」
「いや、いいよ」
「今、帰って来たの?」
「そう」
「遅かったね」
「ちょっと、出てたから」
「明さんは?」
「もう帰ったよ」
「馨さん、元気?他の人達は?」
「皆、相変わらずだよ。修が、夏休み帰って来なかったから、寂しがってたけど」
「ごめんね。バイトもサークルも、抜けられなくて…」
「判ってる。いいよ、謝らなくても」
彼は店の照明を全て落とし、子機を持って自室に移動した。
ベッドの上に横になりながら、彼女の声に耳を傾ける。
離れて久しい、恋人の声に。
彼女が話すのは、主に、大学のことだった。
何を専攻しているか、どんな友人がいるか。
サークルではどういった活動をしているか。
しかし。
どんな話を話していても、修子の声には、拭い去れない緊張があった。
そのことを、彼はすぐに感じ取っていた。
ひとしきり、近況を話し終えると。
彼女は、声のトーンを幾分落とした。
「…ねえ、銘さん」
「うん」
「ひょっとして、後悔してる?」
「何を?」
「わたしと、婚約したこと…」
修子から発せられた、思わぬ言葉に。
彼は、反射的に息を呑んだ。
胸掻き乱す動揺が、たちまち湧き上がる。
「…どうして急に、そんなこと訊くの?」
「何でだろう。ここ最近、凄く不安になって。何だか、銘さんが離れていくみたいな…」
彼は、答えなかった。
彼女に隠れて、他の女性と逢いながら。
その相手に惹かれ始めている今。
自分の気持ちに、嘘をつきたくなかったのだ。
そんな空気を。
彼女はすぐに察した。
「…銘さん?」
彼は、答えられなかった。
今にも、言ってしまいそうだったからだ。
彩のことを。
彼女に惹かれていることを。
「…どうして、否定しないの?何も言ってくれないの?」
修子の声に、悲痛な色が加わる。
しかし。
彼はその問いに、答えられる筈もない。
凍てつくような沈黙が、再び訪れる。
話題を変えるように、彼は、口を開いた。
「…修」
「なに?」
「東京へ、戻ってくる気はないの?」
「…え?」
「ずっと、そこにいるつもり?」
無茶を言っていることを、彼は承知だった。
自分が、ある種の誘導尋問をしようとしていると。
銘は、最初から自覚していた。
しかし。
もう、自分の意思では、止めることが出来なくなっていたのだ。
「…どういう意味?」
「言った通りだよ」
「え、ねえ、何言ってるの?出来る訳ないでしょう?大学だって、あと2年あるのに…」
彼女は、うろたえた。
無理もない。
彼からそんな言葉を聞くとは、夢にも思っていなかったのだ。
「わたしに、大学辞めろって言うの?それで、東京に戻れって?」
「判ってるよ、修。そんなこと、出来る筈ないだろう?」
「そう…」
「だったら、俺の結論は、一つしかないよ」
彼は、自分の言葉の冷たさに気付いていた。
それが、卑怯な駆け引きであることも。
「修。…一度、離れてみよう。君が、大学を卒業するまで。ここへ帰ってくるまで」
受話器の向こうで。
彼女の言葉が、凍りつくのが判った。
沈黙は、雄弁だった。
彼女の戸惑いも、躊躇いも、全てそこに含まれていた。
「…嘘でしょう?ねえ、嘘だよね?どうして急に、そんな酷いこと ―― 」
「ここ数ヶ月、君とはろくに話も出来なくて。会うことすら叶わなくて。 君は知らないかもしれないけど、俺が一体、どんな気持ちでいたと思う?」
「ごめんなさい。でもね、それは…」
「その間、ずっと考えてたんだ。このまま、こうして続けていっていいのかって」
「……」
「俺には無理だよ。待ち続けることなんて。元々、心が通じていた訳でもないのに」
「……」
「修は、本多さんにまだ気持ちを残してる。それを俺が無理矢理、自分のものにして。迷惑だったろうね。10も年上の、しかも、こんな壊れた体抱えた奴なんかさ」
「……」
「君には、もっといい男が現れるよ。俺なんかよりずっと若くて、ずっとましな奴が」
「……」
「修は……俺の何を求めてた?過去の栄光かい?」
「そんな…」
「彼は、今週末には札幌へ行くよ。遠慮なく会えばいい。 本多さん、君に凄く会いたがっていたから。それに…」
「銘さん…」
彼女の声は、震えていた。
「…本気で、そんなこと言ってるの?」
「本気って?」
「本多さんに会えとか、わたしが…銘さんの名前目当てでとか…」
「……」
「わたし、ずっと寂しかったけど、辛かったけど、誰でもいいって訳じゃなかった。銘さんはいつも近くにいて、相談に乗ってくれて。何をしても許してくれて。それが、嬉しかった。だから、わたしは、銘さんのこと、好きになったのに…」
「……」
「ずっと、そんな風に思われてたなんて…」
「……」
「ねえ。銘さんは…銘さんには、わたしはもう必要ないってこと?」
「……」
「・・・そういうことでしょう?」
「…ごめん」
彼は、深い溜息をつく。
彼女の声が、次第に嗚咽に変わっていくのを耳にしながら。
「修。ほんとにごめん。でも、俺…もう、一人になりたいんだ」
「……」
「しばらく、考えさせて。だから、もう、君も自由になれるよ。俺に気兼ねすることなく」
「…本当にいいの?それで、銘さんは満足なの?」
「……」
「もう、やり直せないの?わたしが何を言っても、銘さんの耳には届かないの?」
「…ごめん」
「ねえ、銘さん。お願い。わたしの何がいけなかったか言って。じゃないと…」
「ごめん、修。もう、無理なんだ」
「謝ることも、出来ないの?話し合うことも?そんな…酷いよ…」
「修は、悪くない。俺の我儘だから。俺は君に、責任を押し付けようとしてるだけなんだ」
「…どういうこと?」
「今は、言えないよ」
「どうして?ねえ、銘さん。一体、何があったの?」
「……」
「どうして何も教えてくれないの?何も言ってくれないの?」
彼は、どうしても答えられなかった。
それを察したかのように、修子も口を閉ざす。
嫌な沈黙が続く中。
回線の向こう側から、彼女の啜り泣きだけが聞こえてくる。
その声を耳にしながら。
彼は、身を引き裂かれんばかりの痛みを味わっていた。
半ば引き裂かれた制服のまま、彼の腕の中に飛び込んできた可憐な少女を、
いつしか彼は、愛するようになっていた。
だからこそ。
本多に捨てられた彼女を、放っておけなかったのだ。
この4年間、彼が愛した少女の温もりは、まだ、自分の内にあった。
しかし。
銘は敢えて、それを封印しようとしていた。
新たな想いのために。
或いは、修子への戒めのために。