表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
青の旋律  作者: 一宮 集
11/55

第十一話

駐車場に戻るまで。

彩は、一言も口をきかなかった。

それでも。

自分の腕をそっと掴んでいる指先の温もりを、彼は感じていた。



車を出し、芝浦へ向けて走らせる途中。

彼は、ふと不安になった。

自分はひょっとして、無理強いしてしまったのではないかと。

あんなことは、彼女の本意ではなかったのではないかと。



信号が、赤に変わった時。

彼は、緩やかにブレーキをかけた。

エンジン音が、やや低くなる。

そんな、沈黙の中。

銘は、意を決して口を開いた。


「…彩さん」


彼女は、ほんの少しだけ、顔を向けた。


「…ごめん。迷惑だったよね。あんなことして」


さすがに、彩の表情を窺うことは出来なかった。

彼は、前方を見詰めたまま、言葉を繋いだ。


「…銘さんには」


彼女の声は、微かに震えていた。


「あなたには多分…わたしを受け止められないと思う…」


「どうして?」


「わたし、銘さんが思ってるような人間じゃないの。もっとずっと、暗くて深い…」


彼女は、窓の外に顔を向けている。

彼の場所からは、その表情を窺い知ることは出来ない。


「あなたは、きっと後悔する。わたしなんかと関わったこと。だから…」


「ねえ、彩さん」


「…何」


「それは、俺が決めることでしょう」


「……」


「後悔するかどうかなんて、まだ判らないよ。確かに、俺は彩さんのこと、何も知らないけど」


「……」


「…知らないけど、今、どうしようもなく惹かれてる。その気持ちに、偽りはないよ」


彼女は黙って、外を見たままだ。

信号が青に変わったのに気付いた彼は、殊更ゆっくりと車を出す。



海岸通りをしばらく走っていくと、彼女は、ここでいいと言う。

前回、彼女を降ろした場所だ。

ハザードを点け、ギアをニュートラルに入れる。

しかし。

彩は、彼を見ようともしない。

エンジンのアイドリング音だけが、低く響いている。


「…どうしたの?」


彼は、意を決して声を掛けてみた。

ドアに手をかけながら、彼女はまだ、迷っているようだった。


「…銘さん」


「うん」


「…どうして、わたしなんか」


「判らないよ。俺は、理屈で人を好きになったりしない。ただ…」


彼は、思わず溜息をつく。

余計なことを言わないように、心を配りながら。


「彩さんが、好きだよ。…こんなこと、初めてなんだ」


彼女は初めて、顔を上げて彼を見た。

潤んだ瞳は、真っ直ぐに自分を見詰めてくる。

不意に。

胸が鋭く疼いた。


街灯の明かりの下、薄らと浮かび上がる細い肩、美しい首筋。

ほつれた細い髪が、その胸元に落ちかかっている。

華奢な手首と、指輪のない細い指先。

目の前にいる可憐な女性から、彼はどうしても目を離すことが出来ない。


微かに開かれた唇の感触を、彼は、無意識に思い出していた。

彼女を抱き締めて、自分のものにしたい。

そんな衝動に、彼は駆られた。


しかし。

そんなことが、出来る筈はない。

これ以上、彼女を怯えさせることだけは、避けなければいけない。

そう、自分に言い聞かせつつ。

彼は必死に、自分の欲望を押し殺していたのだ。



やがて。

銘の中の葛藤を見透かしたかのように。

彼女は、冷ややかに言う。


「ありがとう、銘さん」


「いえ、こちらこそ。付き合わせてしまって」


「また、明日」


「じゃあ、また明日」


他人行儀なやり取りのあと。

彩は黙って、車から降りた。

振り返りもせず。

名残惜しさすら、見せることはなかった。




その、遠ざかる小さな背中を見送ったあと。

車を駐車場に入れ、店まで歩いて戻る途中。

まだ微かに残る水溜りを踏み締めながら、彼は、溜息をついた。


どうして、あんなことをしてしまったのかが、判らなかった。

最初、彼女は嫌がるような素振りまでしていたというのに。

その抵抗を押さえつけ、無理強いするような真似をして。


彼女の唇の感触は、まだ生々しく残っていた。

しかし。

彩はあれ以来、彼を牽制するような言葉ばかりを口にするようになった。

それを、思い出すたびに。

彼は、気が塞いでくるのだった。




重たい足を引きずりながら、店のシャッターを開ける。

中から、ピアノの音が聴こえてくる。

まだ誰か、残っているのだろうか。

訝しみつつ階段を降り、ドアを開けた。

たちまち。

彼は、"Rhapsody in Blue"に包まれる。



スポットの当たったステージの上で、明はピアノを弾いていた。

目を閉じて天を振り仰ぎ、遠く心を遊ばせながら。

長い髪は、彼女の呼吸に合わせて揺れている。


端正なタッチと、巧みなアーティキュレーション。

彼女らしい、クールな演奏。

そして激しい。

明の波立つ感情が、素肌を通して染み渡ってくる。


明のピアノを聴くたびに。

その細い体の何処に、そんなパワーが潜んでいるのだろうと思う。

銘はそっと、カウンターに近付いた。

片付けは、あらかた終わっている。

馨が、やっていってくれたのだろう。



最後の一音が、宙に消えたあと。

ようやく彼女は、銘に気付いた。

さっと鍵盤を拭き、蓋を閉めると、真顔で彼に歩み寄る。

湯を沸かしつつ、彼は椅子を勧めた。


「そんな曲弾くの、初めて聴いたよ」


「何でも弾くさ。じゃないと、向こうじゃ食っていけないもの」


明は悪びれずにそう言うと、手を差し出した。


「何?」


「バイト代。今日、馨さんと一緒に打ち上げの手伝いして、片付けまでしたんだから」


「後日」


「また。いっつもそう言って忘れる癖に」


そう言って、明はくすくす笑った。

しかし。

銘は、そのいつにないテンションの高さに、違和感を覚えていた。


「なあ、明」


「うん」


「本多さんと…何かあったのか?」


「え?」


「あんな弾き方するなんて。明らしくもない」


彼女は黙って、ステージを見詰めた。

それから、つと下りて、スポットを消しに行く。


「何もないよ。何も言われなかった。一言もね。だから、癪に障ったんだ」


両手を揉み解しながら、彼女は再びスツールに座る。


「僕は所詮外様だから。向こうだって、気に食わないんじゃないの」


「そんなことはないだろう」


「でも、僕はあの人が何だか気に食わなかった。何でだろう?」


「昔からあの人は、好かれるタイプじゃないよ。良くも悪くも孤高の人だから」


銘が、慣れた手つきで珈琲をカップに注ぐのを、明は黙って見詰めていた。

その視線が、やけに鋭く感じられる。


出されたカップに口をつけつつ、明が言う。


「…ねえ」


「うん?」


「今まで、何処に行ってたの?」


彼は、さすがに言い澱む。


「いや、何処っていう訳じゃ…」


「随分、遅かったじゃない。何してたのさ」


「あのな、明。俺の女じゃあるまいし、どうしてそういう言い方…」


「何回も電話来てたよ。修子さんから。何時でもいいから電話くれって」


彼は、はっとした。

それから、明を見た。

彼女は冷淡に、メモを突き出した。

修子からかかってきた電話の時間を記した紙を。

まるで、彩とのことを知っているかのように。


その推測を裏付けるかのように、明は口を開いた。


「例の人と、会ってたんでしょう?」


「例の人って?」


「あの、画家とか何とか言う人」


しばしの沈黙。

その中に。

道路を行く車のタイヤが、水を滑らかに弾く音が聞こえる。

また、雨が降り出したようだった。


銘は、ついに観念した。

明の勘の良さに、今更敵う筈がない。

諦めて、メモを受け取る。

それを胸ポケットにしまったあと。

煙草に火を点けながら、彼は溜息をついた。


「…だとしたら?」


「別に。とやかく言うつもりはないよ。それこそ、銘さんの女でもないしね。銘さんがそれでいいって言うなら、僕からは何も言えないさ。ただ…」


話しながら、明は、彼の煙草を引ったくる。

それから、深々と吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。

明のそんな姿を見るのは、これが初めてだった。

彼女の細い指先から立ち昇る紫煙が、天井から降り注ぐライトの光に透けていく。


明は長い時間、それを目で追っていた。

再び、沈黙が訪れる。


「…ただ、何?」


銘は、微かな苛立ちを見せながら言う。

明は微笑んで、煙草を彼に返した。


「筋は、通した方がいいと思ってさ。おせっかいかもしれないけど」


スツールから軽い身のこなしで降りると、明は、ショルダーバッグを手にした。


「修子さん、銘さんの気持ちが離れてること、薄々気付いてるみたいだったから」


「…余計なこと、言ったんじゃないだろうな?」


「まさか。僕は、どっちの味方でもないよ。悪いけど。そういうのはうんざり」


くすくす笑いながら、明は、ドアに手をかけた。


「まあ、電話して。もう3時過ぎだけど。彼女、待ってると思うよ」


彼が電話を取るのを確認してから、明はドアを閉めた。

あとには。

救い難い沈黙が訪れる。


銘はしばらく、明の消えたドアの先を見詰めていた。

彼女が発した言葉の意味を、何度も反芻しながら。

それから。

意を決したように、ダイアルする。

011から始まる市外局番を。

修子の自宅へ、繋がる番号を。

 

 

 

 

 

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ