第十話
食事を済ませたあと。
その周辺を、二人で歩いてみる。
不夜城のような六本木ヒルズ。
オープン・エアのチャイニーズ・レストラン。
子供の頃から彼は、夜の雑踏が好きだった。
銘にとってこの街は、故郷そのものであるからだ。
彼の母は、神楽坂の芸者だった。
生物学的な父親は、京都で幾つかの病院を経営しており。
東京での学会がある時だけ、彼等に会いに来る。
後日正式に認知されたとはいえ、彼はあくまで妾腹だった。
それでも父親は二人に目をかけて、何不自由のない生活をさせてきた。
正妻には、男児が一人も授からなかったからだ。
しかし。
親に言われるまま東京大学に進学した彼は、敷かれたレールの上を歩くことを敢えて拒否することになる。
それが、傲慢な父と、その言いなりになっている母に対する、唯一の抵抗だった。
その後。
銘は、たった半年在籍しただけで大学を中退し、単身アメリカへ渡った。
中学の頃から始めたギターをベースに持ち替えてから、四年が経っていた。
バイトをしながらマンハッタンの音楽学校に通い、在学中にプロとしてデビューした。
彼が21歳の時だ。
仕事は、滅茶苦茶面白かった。
学校とスタジオ、ライブハウスを行き来しているうちに、どんどん声がかかるようになり。
マネージャーを雇い、様々なアーティストに同行し、アメリカやヨーロッパへ渡った。
CDのクレジットに、自分の名前が刻み込まれていく。
ダウンタウンのボロ・アパートから、高層マンションへ引っ越した。
朝から晩まで、好きな音楽に没頭し、それで飯が食えた。
まるで、夢のような生活だった。
けれど。
その夢は、長くは続かなかった。
本多からの熱烈なラブ・コールに応え、一時帰国していた彼は、ツアーの途中で突然意識を失った。
病名は、心房中隔欠損症。
東京女子医大の救命救急センターに運ばれた時、既に呼吸は止まっていた。
大量の血液が、肺の中に溢れていたからだ。
再手術の末、命は取り留めたものの。
ミュージシャンである彼には、致命的な結果となった。
業界は、シビアだった。
演奏者は、体が資本なのだ。
いつ倒れるか判らない人間を、使うクライアントなどいない。
だから。
プロとして活動することを、銘は断念せざるを得なかった。
彼が、24歳の時だ。
「…どうしたの?」
彩が、心配そうに訊ねる。
彼はようやく、過去の記憶から解放された。
「いや、何でもないよ」
「口癖みたい」
「え?」
「昔から、そう言ってたよ」
「そうかな。特に意識したことないけど」
銘は、そう言って微笑んだ。
首を傾げながら、彼女は、彼を見上げてくる。
そこは、六本木通りから一本裏に入った、閑静な住宅地。
真っ直ぐな道路沿いに並ぶ、街灯が美しかった。
その、薄黄の明かりの向こうには、雨雲を通して星が見えていた。
六本木の喧騒とは程遠い、ひんやりとした静けさが、二人を包んでいる。
「ほら、銘さん。あそこ」
彩が、空を指差した。
薄暗い雲は、街のネオンを映して、くすんだ赤色を湛えている。
「綺麗ね。ああいう色出すの、すっごい難しいの。アンバーみたいな、チャコールみたいな…」
銘は思わず、くすくす笑い出す。
彼女ははっとして、彼を見た。
それから、ばつの悪そうな顔をする。
「何を見ても、そういう風に思っちゃうんだね」
「あ…ごめんなさい。つい…」
「いや、謝らないで。俺、彩さんの、そういうとこが好きだよ」
そう言ってから。
彼は、自分が発した言葉の意味に気付いた。
たちまち湧き上がる緊張の中で。
彼は、彩を見詰めていた。
彼女もまた、信じられないという顔をして、彼を見詰めている。
再び彼は、息苦しさを感じた。
鼓動が早まっているせいだ。
理性は、彼女から目を逸らせと言っている。
さもないと。
お前は、とんでもないことをしでかすぞ、と。
内なる声に、頷きながらも。
彼は、自分の心の枷が外される音をはっきりと聞いていた。
その音は、極彩色の飛沫となって、彼の足元へ散っていく。
しんとした、住宅街の坂道で。
躊躇いも惑いも、まだ彼のうちにあった。
しかし。
もう、抑えは利かなかった。
彼は咄嗟に、彩を抱き寄せた。
彼女は驚いて、身を引こうとする。
その腕を、彼は掴んだ。
彩の身に漲る緊張が、恐怖が、我がことのように感じられた。
「…やめて」
彼女は、小声で呟いた。
息を乱しながら。
その目を捉えて、彼は囁く。
「…怖がらないで」
彼もまた、必死だった。
この手を離せば、彩はまた、自分とは無縁の存在に戻ってしまう。
彼女との絆は、再び、永久に閉ざされてしまう。
そんな気がした。
「怖がらないで、彩さん。俺は…」
思わず、声が掠れた。
乱れた呼吸を整えながら、彼は、どうにか気持ちを落ち着けようとした。
しかし。
言葉を発するより先に、体が動いていた。
銘は咄嗟に彩を抱き竦め、その可憐な唇を求めた。
彼女は初め、拒むように首を振ったが、彼は離そうとはしなかった。
小柄な彼女を、包み込むように抱き締める。
それから、あらためて繰り返す。
そっと触れ合わせるだけの、優しいキスを。
柔らかな唇を、何度も求め続けているうちに。
彩の体から、次第に力が抜けていくのが判った。
華奢な背中を抱き、頬を撫でながら、愛しさばかりが溢れていく。
これまで誰にも感じたことのない感情に、彼は満たされていた。
彩がぎこちなく口付けに応え始めると、その気持ちは、さらに高まっていく。
彼女の髪は、街灯の光を浴びて、金色に輝いている。
その後れ毛の一本一本まで、愛おしくて仕方がなかった。
互いの息遣いと、唇が触れ合う音。
時折漏れる、彩の溜息。
銘には、それ以外何も聞こえなくなっていた。
未来への不安も、将来への恐れも全て忘れて、二人は、ただひたすらに唇を重ねた。
長年の不在を、埋めるかのように。
これまでの寂しさを、拭い去るように。